このノートは昭和前期のノートに続くもので、1945 年の終戦から 1989 年 1 月の昭和の終わりまでを扱う。金沢大学の城内から角間への移転は 1989 年に始まったので一文触れる。範囲は金沢、富山、小松が中心で、内灘、黒部、高岡、八尾、利賀、能登にも及ぶ。
昭和後期の北陸は、まず米軍の進駐と軍政があり、続いて復興が進んだ。金沢城内は大学のキャンパスになり、富山では焼け跡の中心部で産業博覧会が開かれた。1952 年からは内灘の砂丘が米軍の試射場に選ばれ、戦後初の基地反対闘争が起きた。その後、小松基地、富山空港、金沢港、富山新港、黒部ダム、北陸自動車道が造られ、富山のイタイイタイ病裁判は 1971 年に日本の公害裁判で初めての勝訴判決を得た。北陸放送は 1952 年に放送を始め、高岡出身の藤子不二雄や金沢に住んだ五木寛之もこの時期に世に出た。
一、占領と軍政
昭和前期篇で書いたように、1945 年 10 月に米軍第 33 師団の部隊が金沢と小松に進駐した。人数は資料によって異なり、金沢市の年表は 10 月 27 日に本隊 350 余人が金沢に着いたとし、『石川県史 現代篇 1』は 10 月 22 日に占領軍 750 名が旧歩兵第七連隊兵舎に到着し、うち 90 名が小松と七尾に進駐したとする12。先遣隊のうち 13 人は金沢城跡の旧第七連隊将校集会所を宿舎とし、白雲楼ホテルは進駐軍将兵の保養施設に改装された2。
国立国会図書館が整理した米軍の地方軍政文書では、名古屋の第 30 軍政署が東海・北陸軍政管区本部、金沢の第 90 軍政署が石川軍政班となっている。1949 年 7 月からは「軍政」に替えて「民政」(Civil Affairs)の語が使われ、各府県の民政班は 1949 年 11 月末までに廃止された3。金沢の石川軍政隊は 1946 年 1 月 3 日に本多町の旧海軍地方人事部跡に置かれ、1952 年 7 月 26 日に接収解除となった2。1945 年末に裁判所横の元外人館に開設された米軍情報部(CIC)や、CIE、スキャップ図書館は、1951・1952 年の金沢の市街地図に描かれている2。
富山電気ビルは戦後進駐軍に接収され、1952 年まで司令部が置かれた4。小松飛行場は 1945 年 8 月に米軍に接収されて補助レーダー基地となり、1958 年 2 月に接収解除(全面解除は同年 8 月)となった5。
二、昭和天皇の北陸巡幸
1947 年 10 月 23 日から 11 月 2 日まで、昭和天皇はお一人で福井、石川、富山の三県を巡幸し、石川県で開かれた第 2 回国体に初めて臨席した。福井県と富山県は戦災復興の視察を兼ねた6。石川県では、10 月 26 日に福井県から大聖寺に入って山中温泉に泊まり、28 日に小松を経て金沢に入り、平和町の平和住宅を視察した後、金沢駅から汽車で和倉に向かい、和倉温泉銀水閣に泊まった。29 日には七尾、羽咋、津幡を経て金沢に戻り、野町の第一善隣館や金沢市役所などを回って兼六園の成巽閣に泊まり、30 日に市運動場の国体開会式に臨んだ後、正午に金沢駅から富山県へ向かった7。
その後の行幸啓には、1958 年 10 月の第 13 回国体(富山県)6、1969 年 5 月 26 日に砺波市頼成(現在の県民公園頼成の森)で開かれた第 20 回全国植樹祭があり、両陛下はタテヤマスギなどをお手植えし、立山町吉峰の県林業試験場でタテヤマスギの種子をお手播きした8。1983 年 5 月 22 日には津幡町の石川県森林公園で第 34 回全国植樹祭が開かれ、約 7,700 人が参加した9。
三、引揚者と台湾
金沢南部の平和町は、戦後に第九師団の海外引揚者約 100 名が入居してできた町で、町名は 1963 年の住居表示実施で生まれた10。1946 年 11 月に来沢した吉田茂首相も、平和町の引揚者寮を視察している11。
野町の第一善隣館は 1934 年に託児所を開設し、1948 年に保育所として認可された。定員は 165 人だった12。
台湾の渓州に生まれた林虎彦(1926 年生まれ)は、父が台湾製糖渓州工場の技術長だった。1944 年に旧制高雄第一中学校を卒業し、1946 年に引き揚げ船で日本に渡り、九州から金沢へ流れて、1950 年 3 月に金沢で株式会社虎彦という菓子店を創業した13。1954 年に栃木県に移り、1963 年にはレオン自動機を創業して自動包あん機を開発した13。
1966 年、YKK は台湾に子会社の台湾華可貴を設立した14。1984 年の金城学園創立 80 周年では、金城短期大学と国立台湾芸術専門学校が姉妹校提携を結んだ15。1985 年 4 月の金沢市年表には、明治篇と大正篇で触れた八田與一を台湾の農民が当時も供養していることが分かり、甥の八田一成が追悼式に出席することになって、市長が嘉南農田水利会への感謝状と加賀人形を託したとある15。
四、城内の大学と美術学校
撮影:国土交通省、ライセンス:表示、WebP に変換。出典:Wikimedia Commons
1949 年、金沢医科大学、第四高等学校、石川師範学校、金沢高等師範学校、石川青年師範学校、金沢工業専門学校などが統合されて新制の金沢大学が誕生し、法文、教育、理、医、薬、工の 6 学部が置かれた。法文、教育、理の 3 学部は金沢城内にキャンパスがあり、「お城の中の大学」として親しまれた16。1949 年 9 月に授業が始まったとき、一般教養部の教室は改装した旧歩兵第 7 連隊の兵舎だった11。1955 年に金沢市議会が城跡の開放を求めると、大学側は「学園を一般の観光客の遊歩地にすることはできない」と断った11。角間キャンパスへの統合移転は 1989 年(平成元年)に始まった16。
1946 年、金沢市立金沢美術工芸専門学校が出羽町の旧師団兵器庫に開校し、陶磁、漆工、金工、美術の 4 科を置いた11。1955 年には 4 年制の金沢美術工芸大学になった11。石川県立歴史博物館の説明によれば、大正篇で触れた赤レンガの兵器庫 3 棟は戦後金沢美術工芸大学が使い、1986 年に歴史博物館となった17。昭和前期篇で書いた宮本三郎は、1948 年に金沢美術工芸専門学校の教授になっている18。
五、内灘闘争
撮影:土門拳。出典:Wikimedia Commons(Public domain、縮小して WebP に変換)
1952 年、在日米軍は朝鮮戦争を背景に日本での砲弾試射場の提供を求め、政府は内灘を候補地とした19。同年 9 月、内灘村村民大会は砂丘の接収に「死力をつくして反対すること」を決議し、金沢市粟崎町でも町民総決起大会が開かれた11。12 月 2 日、政府は内灘地区を翌年 1 月から 4 月までの 4 か月間、米軍の砲弾試射場として一時使用することを閣議決定した。接収面積は陸地 625 町歩、海面 400 町歩だった11。
1953 年 3 月に試射が始まり、政府は試射場の永久使用を決め、住民の陳情や座り込みが繰り返された。その後、村内の分裂や試射の強行で運動は弱まり、1953 年 9 月に内灘村は試射場としての使用を認めた19。1956 年 12 月、米軍試射場隊長は知事に「12 月中に試射を終了する」と通告し11、町の資料は 1957 年の米軍完全撤退を記す20。内灘町歴史民俗資料館は、内灘闘争を戦後初の基地反対闘争とし、全国の基地反対闘争に大きな影響を与えて「草の根民主主義への出発点」と評価されていると説明する19。
北陸放送が 1988 年に制作したドキュメンタリー『激動の地方史〔11〕内灘闘争』は、政府がひそかに内灘を視察したのは 1952 年 9 月で、翌年の「バカヤロー解散」後の参院選で石川県の現職国務大臣が落選したと伝える21。
六、小松基地と富山空港
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小松飛行場には 1955 年に大阪への不定期便が飛び、1961 年 6 月に航空自衛隊小松基地が開庁、同年 12 月に正式に自衛隊と民間航空の共用飛行場となった5。1962 年 4 月に大阪・名古屋、1963 年 7 月に東京への定期便が就航し、1964 年 9 月には F-104J 導入のため滑走路が 2,700 m に延びた5。1973 年 11 月に最初の国際チャーター便が香港へ飛び、1979 年 12 月には新潟―小松―ソウルの国際定期便が就航した5。北陸放送の 1988 年のドキュメンタリーは、1960 年の安保改定のころ、石川県内は自衛隊ジェット基地反対運動のさなかだったと伝える22。
富山空港は 1963 年 8 月 20 日に神通川の河川敷に 1,200 m の滑走路で開港し、1984 年 3 月に滑走路が 2,000 m に延びてジェット機が就航した23。昭和前期篇で書いた倉垣飛行場は戦後農地に戻り、この空港とは別の場所である24。
七、港と道路
金沢港は 1954 年 7 月に旧大野港と旧金石港が合併して生まれ25、1970 年 11 月 1 日に開港式が行われて中西知事が開港を宣言した26。射水の富山新港は放生津潟を開削した掘込み港湾で、1968 年 4 月に開港した27。
金沢の市内電車は 1967 年 2 月 10 日に全面廃止された。1919 年の開業から 48 年だった26。北陸自動車道は 1972 年 10 月 18 日に小松 IC―金沢西 IC 間が最初に開通し28、1988 年 7 月 20 日に朝日 IC―名立谷浜 IC 間が開通して北陸道がつながった29。
1963 年 1 月の「三八豪雪」では、金沢の積雪が 181 cm に達した22。
八、黒部ダムと立山黒部
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関西電力の黒部ダムと、約 10 km 下流の黒部川第四発電所を合わせて「くろよん」と呼ぶ。工事は 1956 年 7 月、資材を運ぶ大町トンネル(現在の関電トンネル)から始まった30。トンネルは 1957 年 5 月に破砕帯にぶつかって大量の地下水と土砂が噴き出し、約 80 m の破砕帯を突破するのに 7 か月かかった30。工事期間中に 171 人が殉職した。1960 年 10 月にダムの湛水を、翌年 1 月に発電所の 1・2 号機の発電を始め、1963 年 6 月 5 日に竣工した。堤高は 186 m である30。
1968 年 2 月公開の映画『黒部の太陽』はこの工事を題材にしたもので、監督は熊井啓、主演は三船敏郎と石原裕次郎31。1971 年 6 月 1 日には立山黒部アルペンルートが全線開通し、富山県と長野県が一つのルートで結ばれた32。
九、産業と公害
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1954 年 4 月 11 日から 6 月 4 日まで、富山県と富山市は富山城址公園と魚津市の海浜で富山産業大博覧会を開いた。戦災で焼けた富山市の復興と、全国有数の電源県・工業県としての富山を紹介するためのもので、入場者は 74 万人。高岡市立博物館が所蔵する会場案内図には富山城の写真が載っている33。富山城はこの年、戦災復興事業の記念として建てられた34。
YKK の前身の吉田工業所は、1945 年 3 月の東京大空襲で小松川工場が全焼した。同年 8 月に魚津鉄工所を買収して吉田工業と改め、1946 年 1 月に商標を「YKK」とし、1955 年 5 月に黒部工場が稼働した35。
大正篇で創業を書いた小松製作所は、1947 年 12 月に D50 ブルドーザー 1 号機を完成させ、1951 年 8 月に本社を小松から東京へ移し、1955 年 1 月にアルゼンチン向けモーターグレーダーで初の建設機械輸出契約を結び、1964 年にデミング賞を受けた36。
富山・神通川流域のイタイイタイ病では、1966 年 11 月 14 日に婦中町熊野公民館でイタイイタイ病対策協議会が発足した37。1968 年 3 月 9 日に原告 14 名が富山地方裁判所に提訴し、5 月 8 日には上流の神岡鉱業所の企業活動で排出されたカドミウムによる慢性中毒とする厚生省見解が出され、公害病第 1 号に認定された37。1971 年 6 月 30 日の第一審勝訴は日本の公害裁判で初めての勝訴判決で、1972 年 8 月 9 日の名古屋高裁金沢支部の判決で完全勝訴となった。翌日、住民は三井金属本社で 11 時間に及ぶ直接交渉を行い、損害賠償、汚染土壌の復元、公害防止協定の三つの文書を勝ち取った37。住民団体の清流会館は 1976 年 5 月に竣工した37。
十、放送、百貨店、芸能
北陸放送(MRO)は 1952 年 5 月 10 日に日本海側で最初の民間放送局としてラジオ放送を始め、1958 年 12 月 1 日には日本海側初の民放テレビ局として放送を始めた38。それより前の 1954 年末の金沢市年表は、名古屋のテレビ放送が県内でなんとか映るのは金沢市金石町郊外と大聖寺町だけだと記している11。
大正篇で書いた宮市百貨店は、戦後は大和となった。1986 年 9 月 16 日に片町の大和本店が閉店し、1923 年の創業以来 64 年の営業を終えた。19 日には香林坊第 2 地区再開発の「香林坊アトリオ」が竣工し、大和が入った26。
柴田理恵は八尾で生まれ育ち、学生時代に一人で労演に入って 2、3 か月に 1 回富山に来る新劇を見に行き、1984 年に久本雅美らとワハハ本舗を旗揚げした3940。
鈴木忠志の劇団は 1976 年に南砺の利賀村に移り、農家を改造した劇場「利賀山房」を開いた。1982 年には日本初の国際演劇祭「利賀フェスティバル」を始めた41。
十一、漫画と文学
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藤子・F・不二雄(藤本弘)は 1933 年に高岡で生まれ、1944 年に小学校で転入生の安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ)と知り合った。1951 年に二人は毎日小学生新聞でデビューし、1954 年に上京してトキワ荘に住んだ42。『ドラえもん』の第 1 話「未来の国からはるばると」は『小学四年生』1970 年 1 月号に載った43。藤子不二雄Ⓐの『忍者ハットリくん』は『少年』1964 年 11 月号から 1968 年 2 月号まで連載された44。
五木寛之は 1965 年に東京の仕事を整理し、配偶者の郷里である金沢に移って小立野に住んだ45。1967 年 1 月に「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を受け、金沢市の年表は「金沢市在住の作家」と書いている2646。
伏木出身の堀田善衞は「広場の孤独」などで 1952 年に芥川賞を受けた47。宮本輝の芥川賞作品『螢川』は富山市のいたち川が舞台で、1978 年には北日本放送が宮本輝本人の出演する『テレビ小劇場 宮本輝と蛍川』を制作した48。
十二、映画とテレビ
撮影:Yasu、ライセンス:CC BY-SA 3.0、縮小して WebP に変換。出典:Wikimedia Commons
1961 年 3 月公開の映画『ゼロの焦点』は、野村芳太郎監督、松本清張原作、橋本忍と山田洋次の脚色で、金沢と能登が舞台である。ロケは悪天候に悩まされ、能登金剛の絶壁で撮ったクライマックスは、その後のドラマなどに大きな影響を与えた49。
撮影:KQuhen、ライセンス:CC BY-SA 4.0、縮小して WebP に変換。出典:Wikimedia Commons
放送ライブラリーが所蔵する地方の番組では、1986 年 8 月 29 日放送のドラマ『風の盆恋歌』が高橋治の小説を原作とし、佐久間良子と高橋幸治が主演した。パリで再会したかつての恋人同士の話で、男は越中八尾に家を借りて、風の盆を見に来る女を待つ50。
1989 年 1 月 7 日に昭和天皇が崩御し、翌日平成と改元された26。
十三、いま訪ねられる場所
| 地域 | 場所 | 種類 | 説明 |
|---|---|---|---|
| 内灘 | 内灘町歴史民俗資料館 風と砂の館 | 資料館 | 内灘闘争を紹介19 |
| 金沢 | 石川県立歴史博物館 | 博物館・建物 | 戦後金沢美術工芸大学が使った赤レンガの兵器庫17 |
| 金沢 | 金沢城公園 | 史跡 | 1949 年から金沢大学の一部のキャンパスがあった16 |
| 金沢 | 香林坊大和 | 百貨店 | 1986 年に片町から香林坊へ移転26 |
| 小松 | 小松空港 | 空港 | 自衛隊と民間航空の共用5 |
| 富山 | 富山城(富山市郷土博物館) | 博物館 | 1954 年の戦災復興記念の天守34 |
| 富山 | 富山県立イタイイタイ病資料館 | 資料館 | 富山市友杉 151。2026 年 11/30〜12/2 は施設点検で休館51 |
| 富山 | いたち川 | 川 | 宮本輝『螢川』の舞台48 |
| 立山 | 黒部ダム・立山黒部アルペンルート | ダム・山岳交通 | 1963 年完成。ルートは 1971 年全線開通3032 |
| 南砺 | 富山県利賀芸術公園 | 劇場 | SCOT の拠点41 |
| 高岡 | 藤子・F・不二雄ふるさとギャラリー | 展示施設 | 少年時代の作品と原画42 |
| 志賀 | ヤセの断崖 | 景勝地 | 『ゼロの焦点』のロケ地49 |
参考資料
Footnotes
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金沢市図書館「市史年表 金沢の百年 大正・昭和編」(1945 年 10 月 27 日、米軍本隊 350 余人が金沢に到着):https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/shishinenpyou_t.htm ↩
-
レファレンス協同データベース(金沢市図書館)「GHQが接収した石川県内の建物について」(『石川県史 現代篇 1』pp.821–823:昭和 20 年 10 月 22 日占領軍 750 名、うち 90 名が小松と七尾へ、第九十軍政中隊、昭和 27 年 7 月 26 日接収解除。『石川の戦後50年』pp.365–366:将校集会所、白雲楼。『金沢市史 通史編 3』:昭和 21 年 1 月 3 日本多町に石川軍政隊。CIC、CIE、スキャップ図書館の地図):https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000212095 ↩ ↩2 ↩3 ↩4
-
国立国会図書館 リサーチ・ナビ「World War II Operations Reports, Military Government」(第 30 軍政署〈名古屋〉→東海・北陸軍政管区本部、第 90 軍政署〈金沢〉→石川軍政班。1949 年 7 月 1 日から民政):https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/occupation/WORmg ↩
-
電気新聞「富山大空襲に耐えた富山電気ビルが国の有形文化財に」(2018 年。進駐軍の接収、1952 年まで司令部):https://www.denkishimbun.com/sp/30928 ↩
-
小松空港「沿革」(昭和 20 年 8 月米軍接収、30 年 7 月大阪不定期便、33 年 2 月接収解除、36 年 6 月小松基地開庁、12 月共用飛行場、37 年 4 月・38 年 7 月定期便、39 年 9 月滑走路 2,700 m、48 年 11 月香港チャーター便、54 年 12 月ソウル定期便):https://www.komatsuairport.jp/about/history.html ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5
-
宮内庁「昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況」(昭和 22 年にお一方で福井・石川・富山の三県へ、石川県で初めて国体に臨席):https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/taio-h25-0403.html 。同「秋季国体」表(昭和 22 年 10 月 23 日〜11 月 2 日。昭和 33 年 10 月 18〜27 日富山県第 13 回国体):https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/pdf/syukikokutai.pdf ↩ ↩2
-
金沢市図書館「市史年表 金沢の百年 大正・昭和編」(1947 年 10 月 26〜30 日の北陸巡幸:大聖寺、山中、平和町平和住宅、野町第一善隣館、成巽閣、国体開会式):https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/shishinenpyou_t.htm ↩
-
富山県「第68回全国植樹祭 大会概要」(昭和 44 年 5 月 26 日砺波市頼成で第 20 回全国植樹祭、タテヤマスギなどのお手植え、吉峰の県林業試験場でのお手播き):https://www.pref.toyama.jp/1603/kendodukuri/shinrinkasen/shinrin/1603/outline.html ↩
-
石川県「全国植樹祭について」(昭和 58 年 5 月 22 日津幡町石川県森林公園で第 34 回全国植樹祭、参加者 7,700 人):https://www.pref.ishikawa.jp/shinrin/syokuzyu/about/index.html ↩
-
レファレンス協同データベース(金沢市図書館)「平和町の町名由来について」(『平和町開町四〇周年記念誌』:第九師団の海外引揚者約 100 名が入居。昭和 38 年住居表示):https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000356249&page=ref_view ↩
-
金沢市図書館「市史年表 金沢の百年 大正・昭和編」(1946 年 7 月 8 日・11 月 7 日金沢美術工芸専門学校、11 月 10 日吉田首相が平和町の引揚者寮を視察。1949 年 9 月 1 日金沢大学の授業開始。1952 年 9 月 25・27 日、12 月 2 日内灘。1954 年 12 月テレビ受信。1955 年 4 月 16 日美術工芸大学、10 月 6・12 日城跡開放。1956 年 12 月 5 日試射終了の通告):https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/shishinenpyou_t.htm ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6 ↩7 ↩8 ↩9
-
社会福祉法人第一善隣館「沿革」(1934 年託児所開設、1948 年保育所認可、定員 165):https://1-zenrinkan.or.jp/hojinenkaku.html ↩
-
公益財団法人林レオロジー記念財団「創業者林虎彦氏のプロフィール」(大正 15 年台湾渓州生まれ、台湾製糖渓州工場、昭和 19 年高雄第一中学校卒業、1946 年引揚げ、昭和 25 年 3 月金沢で虎彦創業、昭和 29 年 12 月栃木、昭和 38 年 3 月レオン自動機):https://hayashi-rheology.or.jp/profile/ ↩ ↩2
-
台湾華可貴(YKK)股份有限公司「公司簡介」(1966 年創立、日本 YKK グループの子会社):https://www.ykktaiwan.com.tw/profile.html ↩
-
金沢市図書館「市史年表 金沢の百年 昭和続編」(1984 年 11 月 4 日金城短大と国立台湾芸術専門学校の姉妹校提携。1985 年 4 月 30 日八田與一の追悼式。1986 年 9 月 16・19 日大和。1989 年 1 月 7・8 日):https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/shishinenpyou_s.htm ↩ ↩2
-
金沢大学「沿革」(1949 年新制大学、6 学部、法文・教育・理の 3 学部は金沢城内、「お城の中の大学」。平成元年から角間へ統合移転):https://www.kanazawa-u.ac.jp/university/management/history ↩ ↩2 ↩3
-
石川県立歴史博物館「博物館の紹介」(赤レンガ建物 3 棟はかつて陸軍兵器庫、戦後は金沢美術工芸大学が使用、1986 年に歴史博物館として開館):https://ishikawa-rekihaku.jp/about/ ↩ ↩2
-
國學院大學「宮本三郎|『靖国の絵巻』」(昭和 23 年金沢美術工芸専門学校教授):https://www2.kokugakuin.ac.jp/kaihatsu/maa/yasukuni/artist_miyamoto.html ↩
-
内灘町歴史民俗資料館 風と砂の館「内灘闘争の概要」(1952 年試射場の要求、1953 年 3 月試射、永久使用、1953 年 9 月村が使用を承認、戦後初の基地反対闘争、「草の根民主主義への出発点」):https://www.town.uchinada.lg.jp/site/uchinada-history/11477.html ↩ ↩2 ↩3 ↩4
-
内灘町「町のあゆみ」(昭和 32 年米軍の完全撤退):https://www.town.uchinada.lg.jp/soshiki/soumu/2355.html ↩
-
放送ライブラリー「激動の地方史〔11〕内灘闘争 試射場接収問題」(北陸放送、1988 年 3 月 26 日):https://www.bpcj.or.jp/program/detail/003123/ ↩
-
放送ライブラリー「激動の地方史〔12〕安保・38豪雪・経済成長」(北陸放送、1988 年 5 月 16 日。自衛隊ジェット基地反対運動、1961 年小松基地開庁、1963 年三八豪雪で金沢の積雪 181 cm):https://www.bpcj.or.jp/program/detail/004161/ ↩ ↩2
-
富山空港「富山空港について」(昭和 38 年 8 月 20 日神通川河川敷に 1,200 m で開港。昭和 59 年 3 月 18 日 2,000 m でジェット機就航):https://www.toyama-airport.jp/other/about ↩
-
富山県『県広報とやま』No.368(1999 年 10 月)「空の時代の幕開け 富山飛行場が開場」(倉垣村、敗戦後農地に復元、富山空港 1963 年開港):https://www.pref.toyama.jp/documents/14615/19631_368-h1110.pdf ↩
-
石川県「金沢港の沿革」(昭和 29 年 7 月 10 日旧大野港・旧金石港の合併。昭和 45 年 11 月開港指定):https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kanazawakouwan/p01a.html ↩
-
金沢市図書館「市史年表 金沢の百年 昭和続編」(1967 年 1 月 24 日五木寛之の直木賞、2 月 10 日市内電車全面廃止。1970 年 11 月 1 日金沢港開港式。1986 年 9 月 16 日大和本店閉店、19 日香林坊アトリオ。1989 年 1 月 7 日崩御、8 日平成改元):https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/shishinenpyou_s.htm ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6
-
国土交通省 伏木富山港湾事務所「新湊地区」(放生津潟を開削、昭和 43 年 4 月開港):https://www.toyama.pa.hrr.mlit.go.jp/about_harbor/shinminato/ ↩
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NEXCO 中日本「北陸自動車道 開通40周年」(1972 年 10 月 18 日小松 IC―金沢西 IC 初開通):https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=2873 ↩
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NEXCO 東日本 北陸道開通年表(1988 年 7 月 20 日朝日 IC―名立谷浜 IC「北陸道開通!」):https://www.e-nexco.co.jp/activity/agreeable/hokuriku30/image/graph.pdf ↩
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関西電力「【60周年記念】くろよんヒストリーを徹底解明!(前編)」(黒部ダム・黒部川第四発電所の総称「くろよん」、発電所はダムの約 10km 下流、1956 年大町トンネル着工、1957 年 5 月破砕帯、実に 7 ヶ月で約 80m の破砕帯を突破、1960 年 10 月湛水・翌年 1 月 1・2 号機発電開始、1963 年 6 月 5 日竣工、171 名殉職、高さ 186m):https://media.kepco.co.jp/project/17649696 ;Wikipedia「黒部ダム」(1956 年 7 月着工):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%83%A8%E3%83%80%E3%83%A0 ↩ ↩2 ↩3 ↩4
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PONY CANYON International Licensing「The Sands of Kurobe(黒部の太陽)」(1968 年 2 月 17 日公開、熊井啓、三船敏郎、石原裕次郎):https://intl.ponycanyon.co.jp/227 ↩
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立山黒部アルペンルート「全線開業55周年」(1971 年 6 月 1 日全線開通):https://www.alpen-route.com/55th/ ↩ ↩2
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文化遺産オンライン「富山産業大博覧会展望見取図」(高岡市立博物館。昭和 29 年 4 月 11 日〜6 月 4 日、富山城址公園と魚津市海浜、入場者 74 万人):https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/567878 ↩
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富山市「建築物、樹木など」(昭和 29 年に戦災復興事業の記念として建築された富山城):https://www.city.toyama.lg.jp/shisei/machizukuri/1010805/1012703/1012714.html ↩ ↩2
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YKK「沿革」(1945 年 3 月小松川工場全焼、8 月魚津鉄工所買収・吉田工業、1946 年 1 月商標 YKK、1955 年 5 月黒部工場稼働):https://www.ykk.com/corporate/group/outline.html ↩
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コマツ「沿革」(1947 年 12 月 D50 ブルドーザー 1 号機、1951 年 8 月本社を小松から東京へ、1955 年 1 月アルゼンチン向けモーターグレーダー輸出契約、1964 年 11 月デミング賞):https://www.komatsu.jp/ja/aboutus/history ↩
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イタイイタイ病対策協議会 清流会館「イタイイタイ病のあゆみ」(1966 年 11 月 14 日発足、1968 年 3 月 9 日提訴〈原告 14 名〉、5 月 8 日厚生省見解、1971 年 6 月 30 日一審勝訴、1972 年 8 月 9 日控訴審、8 月 10 日の三つの文書、1976 年 5 月清流会館竣工):https://ibyou-seiryukaikan.org/history/ ↩ ↩2 ↩3 ↩4
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北陸放送「ラジオの分社に向けた新会社設立について」(1952 年 5 月 10 日、日本海側で最初の民間放送局):https://www.mro.co.jp/info/mroradio/ 。「MROテレビ60周年」(昭和 33 年 12 月 1 日、日本海側初の民放テレビ局):https://www.mro.co.jp/tv/60tv/ ↩
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明治大学 Meijin「柴田理恵」(1959 年生まれ、富山県出身、東京ヴォードヴィルショーを経て 1984 年ワハハ本舗):https://www.meiji.ac.jp/koho/meijin/special/shibata.html ↩
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テレ朝POST「柴田理恵」(富山県八尾町で生まれ育つ、労演、民藝・俳優座・前進座・文学座):https://post.tv-asahi.co.jp/post-115424/ ↩
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Suzuki Company of Toga「Profile」(1976 年劇団が利賀へ、利賀山房開場。1982 年日本初の国際演劇祭「利賀フェスティバル」):https://www.scot-suzukicompany.com/en/profile.php ↩ ↩2
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高岡市 藤子・F・不二雄ふるさとギャラリー「館内紹介」(1933 年 12 月 1 日高岡生まれ、1944 年安孫子素雄、1951 年「天使の玉ちゃん」、1953 年ペンネーム、1954 年トキワ荘、1964 年「オバケのQ太郎」、1987 年コンビ解消):https://fujiko-artgallery.jp/room_information.html ↩ ↩2
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小学館「藤子・F・不二雄大全集 ドラえもん」(「未来の国からはるばると」小学四年生 1970 年 1 月号):https://www.shogakukan.co.jp/pr/fzenshu/lineup/doraemon/ ↩
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藤子スタジオ「作品紹介」(『忍者ハットリくん』「少年」1964 年 11 月〜‘68 年 2 月号、『プロゴルファー猿』「週刊少年サンデー」1974 年 3 月 24 日〜‘78 年 11 月 5 日号):https://fujikostudio.jp/works.html ↩
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婦人公論.jp 五木寛之「直木賞を受けるか、ひっそりと金沢で生きるか…」(1965 年に金沢へ移住、小立野、配偶者の郷里):https://fujinkoron.jp/articles/-/4836?page=2 ↩
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金沢文芸館「金沢五木寛之文庫」(1932 年福岡生まれ、1966 年小説現代新人賞、翌年直木賞):https://www.kanazawa-museum.jp/bungei/bunko/index.html ↩
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高岡市「名誉市民」(堀田善衞、伏木出身、「広場の孤独」などで昭和 27 年芥川賞):https://www.city.takaoka.toyama.jp/soshiki/hishoka/1/1/1/4556.html ↩
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放送ライブラリー「テレビ小劇場 宮本輝と蛍川」(北日本放送、1978 年 6 月 30 日、45 分):https://www.bpcj.or.jp/program/detail/001393/ ↩ ↩2
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松竹 Cinema Classics「ゼロの焦点」(1961 年 3 月 19 日公開、95 分、金沢と能登、能登金剛の絶壁):https://www.cinemaclassics.jp/nomura/movie/144/ ↩ ↩2
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放送ライブラリー「金曜女のドラマスペシャル 風の盆恋歌」(1986 年 8 月 29 日、原作高橋治、佐久間良子・高橋幸治、越中八尾):https://www.bpcj.or.jp/program/detail/013522/ ↩
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富山県「イタイイタイ病資料館」(富山市友杉 151。令和 8 年度施設点検に伴う休館 11/30〜12/2):https://www.pref.toyama.jp/1291/kurashi/kenkou/iryou/1291/index.html ↩