このノートは北陸先史から江戸前中期までの八篇に続くもので、1780 年ごろから 1868 年の明治改元までを扱う。北越出兵と慶寧のその後は 1869〜1874 年まで触れる。月日は当時の日本の暦によるもので西暦には換算しておらず、英国人の回想録の日付は原文どおり西暦で記した。

江戸後期、兼六園は少しずつ広げられて今の姿になり、北陸の海運や売薬、九谷焼も発展を続けた。1858 年の飛越地震では立山の山体が崩れ、その後二度の土石流が富山平野に押し寄せた。幕末になると、加賀藩は沿岸に近づく異国船に備えながら京都の政局に巻き込まれ、1868 年には越後に出兵する。このノートでは、金沢・富山・小松周辺の人物と出来事、そして今も見られる建物や碑を取り上げる。

本文に出てくる江戸後期〜幕末関連の地点。範囲をもつ地点は代表点で示した。マーカーをクリックすると Google Maps で開く。地図の表記は中国語(繁体字)。地図:© OpenStreetMap contributors © CARTO。⚠ お出かけ前に公式情報でご確認ください。

一、江戸後期と幕末

江戸時代の後期は一般に 1780 年ごろから 1850 年ごろまでを指し、1853 年から 1868 年までが末期、いわゆる幕末である1。この時期の加賀藩主は主に、13 代前田斉泰(1811〜1884)と 14 代前田慶寧(1830〜1874)の父子だった2。

斉泰は 1822 年に家督を継ぎ、1827 年に 11 代将軍徳川家斉の娘溶姫を正室に迎え、前田家と幕府の関係はより強くなった3。慶寧は溶姫の子で、1866 年に父から家督を継いだ。斉泰は隠居後も、大きな事件では慶寧を支えた2。

前田斉泰像 前田慶寧写真

前田斉泰像(左、作者不詳)と前田慶寧立像写真(右、Commons は 1866〜1874 年の撮影とする)。出典:Wikimedia Commons(左)、Wikimedia Commons(右)、いずれも Public domain、縮小して WebP に変換

二、兼六園と成巽閣

今の兼六園の一角には、1792 年に藩校の明倫堂と経武館が建てられた。12 代藩主斉広は藩校を移し、1822 年にその跡地に自分の隠居所、竹沢御殿を建てた。この年に「兼六園」と名付けられている4。

斉広の死後、斉泰は竹沢御殿を取り壊し、霞ヶ池を広げて木を植え、1860 年には隣の蓮池庭との間の門と塀を取り払って二つの庭を一つにした4。

兼六園 霞ヶ池

斉泰が広げた霞ヶ池。撮影:Tbatb、ライセンス:CC BY-SA 4.0、縮小して WebP に変換。出典:Wikimedia Commons

1863 年、斉泰は母真龍院の隠居所として巽御殿を建てた。今の成巽閣で、兼六園はこれでほぼ現在の形になった4。「巽」は東南のことで、金沢城から見て東南の方角にある5。大名の書院造と数寄屋風の書院の両方の形をもち、雪見障子には当時オランダから輸入したギヤマンが使われている。1950 年に重要文化財に指定された5。茶室清香軒、清香書院、庭園の飛鶴庭は普段は公開されていない5。

成巽閣(兼六園そば)

1863 年に真龍院のために建てられた巽御殿。撮影:そらみみ、ライセンス:CC BY-SA 4.0、縮小して WebP に変換。出典:Wikimedia Commons

三、海と商人:銭屋五兵衛と大野弁吉

銭屋五兵衛像(作者不詳)

出典:Wikimedia Commons(Public domain、WebP に変換)

銭屋五兵衛は 1773 年に宮腰(今の金沢市金石町)で生まれた。家は六代前から両替商を営んでいた。17 歳で家を継ぐと、呉服、古着、木材、海産物、米の問屋も手がけ、50 代後半になってから北前船で本格的に海運に乗り出し、その後約 20 年で江戸時代を代表する海運業者になった。藩の御用金の調達もたびたび引き受けている6。

晩年、五兵衛は河北潟の干拓に取りかかった。1852 年、80 歳で獄中で亡くなる。銭屋五兵衛記念館は、反対派が死魚中毒事故を口実に中傷し、無実の罪を着せたと説明している67。海外渡航の話については、記念館自身が肯定はできないとして伝説として紹介している8。河北潟の干拓が実現したのは、1963 年から 20 年余りをかけた国営事業によってだった9。

今の銭五の館には銭屋本宅の一部が移築されており、館内の茶室拾翠園も旧銭屋邸から移したもの。金石の銭五公園には五兵衛の銅像が立つ106。

銭五の館(金沢市普正寺町)

銭屋本宅の一部を移築した建物。撮影:Saigawasakurabashi、ライセンス:CC BY-SA 3.0、縮小して WebP に変換。出典:Wikimedia Commons

発明家の大野弁吉は 1831 年に金石の隣の大野村に住みつき、銭屋五兵衛とも交流があった11。からくり人形のほか、時計、ライター、写真機、望遠鏡を考え、静電気を起こすエレキテルも作り、細かな細工の根付を数多く残している12。金沢港近くの大野からくり記念館には、弁吉に関する展示品、からくり人形、動かせるからくり作品が約 100 点並ぶ12。

四、学問と産業:石黒信由、売薬と高峰譲吉

石黒信由像(射水市新湊博物館)

出典:Wikimedia Commons(Public domain、WebP に変換)

石黒信由(1760〜1836)は越中射水郡高木村の生まれで、和算家であり測量家でもあった。信由から四代にわたる和算・暦学・測量・絵図作製の資料は約 12,000 点あり、「高樹文庫」と呼ばれる。射水市新湊博物館に収められ、そのうち数千点が国の重要文化財である13。

富山藩は 1816 年に反魂丹役所を置き、売薬業を保護・統制した14。1853 年には藩内の売薬行商人が 22 組 2,258 人に達し、藩に約 3,200 両を納めている14。10 代藩主前田利保は 1850 年ごろ、全 94 巻の本草書『本草通串』をまとめた15。

富山の売薬人はそれぞれ決まった商売範囲をもち、「懸場帳」という帳面に記していた。年に 1、2 回出かけ、帳面の得意先を回り終えると富山に戻った16。遅くとも文政年間(1818〜29)には北海道の松前藩内で商売をしていた記録があり、安政年間(1854〜59)にはさらに先の蝦夷地で売薬を始めたいという願書も出ている16。

高峰譲吉は 1854 年に高岡で生まれ、1862 年に金沢の藩校明倫堂に入学、1865 年に加賀藩から選ばれて長崎に留学した17。

五、小松:再興九谷、勧進帳と埴田の虫塚

1807 年、京焼の名工青木木米が金沢の春日山窯に来た。その助工だった本多貞吉は、磁器の原料となる陶石を小松の花坂山で見つける。貞吉は若杉村の十村(加賀藩が任命した、農村の管理と徴税を担う地域の有力者)林八兵衛の助けを得て、その瓦窯を使い、1811 年に磁器を焼き上げた18。この若杉窯は、のちに加賀藩の殖産興業のため大きな窯場に広げられた19。若杉窯は 1836 年に火事に遭って隣村の八幡に移り、八幡の連房式登窯は 1965 年ごろまで使われた。今は小松市立登窯展示館に残されている20。

歌舞伎『勧進帳』は、義経一行が加賀の安宅の関所を通る場面を描いた作品である。7 代目市川團十郎が 1840 年に作り直し、背景や衣裳には能を取り入れた21。安宅と『勧進帳』については鎌倉篇で書いた。

天保年間(1830〜1843)は凶作、飢饉、疫病が続いた。1839 年は天候がよく豊作が期待されていたが、7 月中旬から糠虫(ウンカ)が大発生し、穂の出る時期の稲が大きな被害を受けた22。藩は木の実油を水田にまいて油膜を張り、そこへ虫を払い落として窒息させる方法を村々にとらせた。埴田村で集めた虫は 23 俵にも及んだといわれる22。

駆除を指揮した十村の田中三郎衛門は、虫の袋を地中に埋めて供養の虫塚を建て、碑に害虫が出たときの対処法を刻んだ22。この埴田の虫塚は小松市指定史跡である。岩淵村にも同じような虫塚があり、今は岩淵町白山町神社の境内に移されている22。

六、越中:1858 年の飛越地震と浮田家

1858 年 2 月 26 日の未明(新暦 4 月 9 日)、跡津川断層を震源とする大地震が起きた23。立山カルデラの大鳶山・小鳶山などが崩れ、土砂が常願寺川の上流をせき止めた。被害はおよそ 100 か村、全壊家屋は 140〜150 戸と伝えられる23。

28 日の夜には富山の城下に危険のおふれが出され、侍から町人まで山手へ逃げた23。3 月 10 日(新暦 4 月 23 日)、再び起きた地震でせき止めていた土砂が崩れ、巨石混じりの泥流が岩峅寺の宿坊や民家を襲った23。4 月 26 日(新暦 6 月 7 日)には二度目の大土石流が堤防を破って富山平野に押し寄せ、加賀藩領だけで 140 人が亡くなり、8,945 人が負傷した23。

富山市太田南町の浮田家は、1828 年に建てられた加賀藩奥山廻役の役宅である。奥山廻役は、立山・黒部一帯を見回って山林を守り、国境を警備する役目だった24。主屋、表門、土蔵が残る国指定重要文化財で、公開されている24。

七、異国船、漂流者と 1867 年の英国人

1839 年、越中の長者丸が漂流し、乗組員は外国船に救われて、ハワイ、カムチャッカ、オホーツク、アラスカを経て 1843 年に帰国した25。高岡の医者佐渡養順は乗組員金蔵の話を「漂海略記」にまとめ、加賀藩も帰国者を調べて記録を作り、持ち帰った時計にちなんで「時規物語」と名付けた25。1849 年 3 月 17 日には乗組員 4 人が藩主斉泰の前で漂流の話をし、金蔵はロシアで貰った服を着て臨んだ25。

1853 年にペリーが浦賀に来ると、幕府は諸大名に意見を求めた。斉泰は、防備が整うまでは穏便に対応し、整ったあとは相手の出方しだいとすべきだと答え、慶寧もこれに同意した25。

1855 年 4 月には金石沖で異国船が目撃され、1859 年 4 月には越中の伏木や魚津でも目撃された。魚津に駐在していた成瀬正居が白地に十字の船印を描き残しており、金沢市立玉川図書館近世史料館はロシア船と推測している25。

1858 年 11 月、幕府の外国奉行に就いたばかりの堀織部正利煕が 120 人余りを率いて北陸の海岸を見て回り、最後に安宅で昼の休憩をとった。安宅町は接待の費用の約 6 割を藩から借り、のちに返済の免除を願い出たが認められなかった26。1859 年 6 月には安宅浦にも異国船が現れ、小松町は大騒ぎになった27。1863 年からは農民の鉄砲稽古が始まって銃卒が組織され、1864 年末には能美郡に 4 隊 114 人の銃卒がいた27。

アーネスト・サトウ(撮影年・撮影者不詳)

1867 年に英国公使館の通訳官として金沢、小松を経て大坂まで陸路で旅した。出典:Wikimedia Commons(Public domain、WebP に変換)

1867 年、所口港(今の七尾港)は新潟に代わる日本海側の開港場の候補となり、アメリカ・イギリス・フランスが測量に来た25。7 月には英国公使パークスが通訳官アーネスト・サトウ、書記ミットフォードとともに所口を訪れ、サトウとミットフォードはここから大坂まで陸路で向かうよう命じられた25。村井又兵衛は 7 月 12 日、英国人が明日城下に着くので無作法のないように、とする注意書を出している25。

サトウはこの旅を、1921 年刊行の回想録『A Diplomat in Japan』に書いた28。一行は津幡、森本を通り、松林の間に金沢城の白い城壁を見た。町に入って間もない一軒で藩の役人と会い、メロンとリンゴに、町の背後の山から運んだ氷雪を添えてもてなされた28。

ミットフォードが藩主に直接礼を述べたいと言うと、使者は「主人はあいにく体調がすぐれません」(“My master is unfortunately indisposed”)と答えた。サトウは、本当の理由は別にあったのだろうと推測している28。サトウによれば、話をした加賀藩の人々は、外国人と交易はしたいが、幕府に取り上げられるおそれがあるので七尾を表立って開港場にはしたくないと語り、幕府はなくすべきではないが、その権力には制限が要るという考えも示した28。いずれもサトウが後年書いた回想で、加賀藩側の記録ではない。

一行は西暦 8 月 14 日の朝に金沢を発ち、松任で昼食をとって夕方小松に着き、翌日加賀藩と大聖寺藩の境を越えた28。

八、京都の政局、天狗党と 1868 年

慶寧の退京

1863 年に斉泰が将軍徳川家茂の上洛に供奉してからは、加賀藩は家老を京都の建仁寺に常駐させた2。1864 年 7 月の禁門の変で、京都にいた世嗣慶寧が京都を離れたことから藩内は大きく揺れ、変のあと慶寧は謹慎し、藩士数十人が処分された229。8 月、慶寧は近江海津から、親子の道として斉泰の指示に従うと書き送り、随行の家臣にも騒ぎを起こさないよう言い聞かせた230。

敦賀の天狗党

禁門の変のあと、加賀藩は幕府の命で第一次長州征討に加わり、水戸天狗党の西上にも兵を出した3。天狗党は 1864 年に筑波山で挙兵した水戸藩の尊王攘夷派で、京都を目指して西へ進んだが、敦賀で包囲されて降伏した31。翌年、353 人が敦賀の来迎寺で処刑され、その墓が今の国史跡「武田耕雲斎等の墓」である32。降伏した 823 人は敦賀の港の荷蔵 16 棟に入れられ、そのうち 1 棟がのちに移築されて水戸烈士記念館(旧鯡蔵)になった33。天狗党側の日記には、首領武田耕雲斎が加賀藩に宛てた上書も記されている3134。

武田耕雲斎等の墓 水戸烈士記念館

敦賀の武田耕雲斎等の墓(左)と水戸烈士記念館(旧鯡蔵、右)。旧鯡蔵の写真は 2016 年撮影で、2021〜2023 年の移築・修復前の姿。撮影:TR15336300101、ライセンス:CC BY-SA 4.0、縮小して WebP に変換。出典:Wikimedia Commons(左)、Wikimedia Commons.jpg)(右)

富山藩の内紛

富山藩では 1844 年ごろから、10 代藩主前田利保と、その子の 12 代藩主利声が藩政をめぐって争った。利声は財政を立て直そうと藩札を大量に出したが、かえって金融が混乱し、藩内は「富山方」と「江戸方」に分かれた35。1857 年、利声は失脚し、江戸方の家老富田兵部は切腹した3536。

1859 年に家老となった山田嘉膳は、加賀藩から当時 4 歳の 13 代藩主利同を迎え、藩の立て直しに取り組んだ。林太仲ら藩士 7 人は改革を求めて同盟を結んだが、そのうち藤田呉江は計画を止めようとして聞き入れられず、同盟を抜けた。残る 6 人が建白書を出したが受け入れられず、蟄居謹慎を命じられた36。

1864 年、6 人の一人島田勝摩が富山城内で嘉膳を殺害し、のちに切腹を命じられた3637。

卯辰山開拓

1867 年から 1868 年にかけて、慶寧は金沢の東、卯辰山で開拓を進め、医療施設の養生所、福祉施設の撫育所、作業場の所作所を設けた38。内藤誠斎の『卯辰山開拓録』によると、山麓には陶器・漆器・鍛冶の工房や、芝居小屋、料理店、風呂屋も建ち、一般に開放された38。養生所は 1867 年 6 月に着工し 10 月に完成したが、開拓は明治維新で途切れた38。卯辰山の卯辰山天満宮は、慶寧が兼六園内の竹沢御殿から移したものである39。

新政府への恭順と北越出兵

1867 年 12 月 9 日、慶寧が京都に着いたその日に王政復古の大号令が出された2。1868 年正月 6 日、慶寧は斉泰や重臣と話し合ったうえで、徳川慶喜の討薩に呼応して上洛し協力すると家中に告げた2。しかし鳥羽・伏見の戦いのあと徳川家が朝敵(朝廷の敵)とされると、加賀藩は徳川支持をやめて朝廷への忠誠を表明し、新政府に恭順した23。

同じ年の 4 月、加賀藩は薩摩・長州とともに北陸道を鎮めるよう命じられ、小川仙之助らの部隊を出した2。閏 4 月末の鯨波の戦いから戦闘に加わり、7 月末の長岡城の攻略にも関わった。最後の部隊が金沢に戻ったのは 1869 年 2 月である2。戦死者は越後の各地に葬られ、近世史料館にはその 18 か所を描いた絵図がある2。富山藩も加賀藩に従って新政府側につき、越後に出兵して、さらに南会津や庄内まで転戦した40。

1868 年、元号は明治に改められた。慶寧は 1871 年の廃藩置県のあと東京に移り、1874 年に亡くなった2。

九、後世の作品

以下は出版社・放送局の公式紹介で確認できる内容に限る。作品の筋書きは史実としては扱わない。

  • 柴田錬三郎『眠狂四郎殺法帖』:集英社文庫版の紹介は、「加賀の豪商・銭屋五兵衛の陰謀」を阻止するため狂四郎が北陸路に踏み入ると書く41。1963 年に大映が市川雷蔵主演で映画化した42。
  • 童門冬二『全一冊 銭屋五兵衛と冒険者たち』:集英社の紹介は、銭屋五兵衛と大野弁吉を、幕末に「国際化」の道を歩んだ男たちとして描く43。
  • 吉村昭『天狗争乱』:新潮社の紹介は、慶喜に見放された天狗党が越前で非情な最期を迎えると書く44。
  • NHK 大河ドラマ『青天を衝け』第 18 回「一橋の懐」:公式あらすじには、成一郎が慶喜の密書を耕雲斎に届け、天狗党の惨状を目撃する場面がある45。

十、いま訪ねられる場所

本文に関連する見学可能な施設と地点。マーカーをクリックすると Google Maps で開く。地図の表記は中国語(繁体字)。地図:© OpenStreetMap contributors © CARTO。⚠ お出かけ前に公式情報でご確認ください。
地域場所種類説明
金沢兼六園庭園・特別名勝1822 年命名。1860 年に蓮池庭と一体となり現在の形に4
金沢成巽閣建築・重要文化財1863 年の巽御殿。一部は普段非公開5
金沢卯辰山三社(卯辰山天満宮)神社慶寧が移した天満宮。境内拝観無料39
金沢石川県銭屋五兵衛記念館・銭五の館展示施設銭屋本宅の一部を移築。9:00〜17:00(入館は 16:30 まで)。12〜4 月は火曜休館(祝日の場合は翌日)、12 月 29 日〜1 月 3 日休館10
金沢銭五公園(銭屋五兵衛銅像)公園・銅像金石町6
金沢大野からくり記念館展示施設大野弁吉関連の展示品、からくり人形、動かせるからくり作品など約 100 点12
小松小松市立登窯展示館展示施設若杉窯が八幡に移った後の連房式登窯。11:00〜15:00(入館は 14:30 まで)、入館無料。月曜(祝日を除く)、休祝日の翌平日、12 月 29 日〜1 月 3 日休館20
小松埴田の虫塚史跡1839 年の虫害の供養塚。碑文に駆除法22
富山浮田家建築・重要文化財1828 年の奥山廻役役宅。9:00〜17:00(入館は 16:30 まで)、大人 100 円。月曜(祝日・休日を除く)、祝日・休日の翌日(土日を除く)、12 月 28 日〜1 月 4 日休館24
富山富山市民俗民芸村 売薬資料館展示施設柳行李、懸場帳、売薬版画などの売薬資料46
射水射水市新湊博物館展示施設石黒信由の高樹文庫を収蔵13
敦賀武田耕雲斎等の墓・水戸烈士記念館(旧鯡蔵)国史跡・建築記念館は通常外観のみ。内部は一週間前までにガイドを申し込む3233

参考資料

Footnotes

  1. 江戸時代(後期 1780 年ごろ〜1850 年ごろ、末期 1853〜1868 年、1868 年の明治改元で終わる):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3 ↩

  2. 金沢市立玉川図書館近世史料館 平成 27 年度特別展図録『幕末維新期の加賀藩』(斉泰 1811 年生・1822 年相続・1866 年隠居・1884 年死去、慶寧 1830 年生・母溶・1866 年相続・1871 年東京移住・1874 年死去、京都詰体制、禁門の変と慶寧の退京・謹慎・藩士数十名の処分、海津での親翰、王政復古、慶応 4 年正月 6 日の宣言とその後の恭順、北越出兵・小川隊・鯨波・長岡・明治 2 年 2 月帰還。図録には小川隊旗、隊割帳、日記、「北越戦死者墳墓箇所絵図」(越後頸城郡笠島村多聞寺、苅羽郡柏崎妙行寺など 18 か所)も載る):https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/ishinkitenji.pdf ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6 ↩7 ↩8 ↩9 ↩10 ↩11 ↩12

  3. 石川県立歴史博物館 常設展「近世」3 幕末の加賀藩(1827 年の溶姫入輿、長州征討と天狗党への派兵、鳥羽・伏見の戦い後の徳川支持断念):https://www.ishikawa-rekihaku.jp/exhibition/04.html ↩ ↩2 ↩3

  4. 石川県金沢城・兼六園管理事務所「兼六園の歴史」(1792 年の藩校、1822 年の竹沢御殿と兼六園命名、斉泰の拡張、1860 年、1863 年の巽御殿):https://shiro-niwa.pref.ishikawa.lg.jp/kenrokuen-garden/history.html ↩ ↩2 ↩3 ↩4

  5. 成巽閣「事業・活動」(1863 年創建、真龍院の隠栖、1938 年旧国宝、1950 年重要文化財):https://seisonkaku.com/about/jigyo.html ;成巽閣「みどころ」(名は金沢城の巽の方角と京都鷹司家の「辰巳殿」にちなむ、ギヤマンの雪見障子、清香軒・清香書院・飛鶴庭は普段非公開):https://seisonkaku.com/midokoro/index.html ↩ ↩2 ↩3 ↩4

  6. 石川県銭屋五兵衛記念館「銭屋五兵衛の人物像」(1773 年 11 月 25 日宮腰生まれ、両替商、北前船の海運業、御用金、河北潟干拓、「反対派の中傷による無実の罪」、1852 年 11 月 21 日獄中で死去、銭五公園の銅像):https://www.zenigo.jp/zenigo/3/ ↩ ↩2 ↩3 ↩4

  7. 石川県立図書館 SHOSHO「[銭屋五兵衛口上書] [河北潟死魚事件につき銭屋五兵衛口上書]」(日付欄「子(嘉永 5 年)9 月 19 日」、石川県史第二編 p763。口上書の原文は未読):https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/detail/orgn/B999002025 ↩

  8. 石川県銭屋五兵衛記念館「海外貿易説」(「肯定もできないが」「伝説として紹介している」):https://www.zenigo.jp/zenigo/8/ ↩

  9. 石川県銭屋五兵衛記念館「河北潟干拓事業」(延宝元年(1673)からの新田造成、昭和 38 年から 20 余年・283 億円余の国営干拓):https://www.zenigo.jp/zenigo/10/ ↩

  10. 石川県銭屋五兵衛記念館(銭五の館と拾翠園の移築、開館時間、休館日):https://www.zenigo.jp/ ↩ ↩2

  11. 石川県金沢港大野からくり記念館(大野弁吉の 1831 年の大野村への移住、銭屋五兵衛との交流、所在地 金沢市大野町 4 丁目):https://www.ohno-karakuri.jp/ ↩

  12. 石川県金沢港大野からくり記念館「展示品紹介」(大野弁吉、約 100 点、根付、エレキテル、江戸後期のからくり人形):https://www.ohno-karakuri.jp/collection.php ↩ ↩2 ↩3

  13. 射水市「石黒信由の『高樹文庫』とは何ですか」(1760〜1836、信由・信易・信之・信基の四代の資料 12,000 点。2011 年のページでは 3,765 点が国の重要文化財。新湊博物館に収蔵):https://www.city.imizu.toyama.jp/faq/svFaqDtl.aspx?servno=149 ↩ ↩2

  14. 富山市売薬資料館「富山売薬関連年表」(1816 年反魂丹役所、1844 年 21 組 2,188 人、1853 年 22 組 2,258 人・上納金約 3,200 両。この年表は『本草通串』を嘉永元年(1848)とする):https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/minzokumingei/baiyaku/baiyaku_nenpyou.html ↩ ↩2

  15. 富山大学 和漢薬Wiki「本草通串」(前田利保、1850 年ごろ、全 94 巻 56 冊。売薬資料館年表の 1848 年とは異なる):https://www.inm.u-toyama.ac.jp/wiki/hztk_list.html ↩

  16. 富山市売薬資料館「富山売薬-質問の中から」(懸場帳、年 2 回または 1 回、文政年間の松前藩、安政年間の蝦夷地の願書、22 組と南部組):https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/minzokumingei/baiyaku/baiyaku_about.html ↩ ↩2

  17. 金沢市「高峰譲吉博士略年譜」(1854 年高岡生まれ、1862 年明倫堂、1865 年長崎留学):https://www4.city.kanazawa.lg.jp/shiseijoho/kensho_hyoshoseido/12458.html ↩

  18. 十村制(加賀藩 3 代藩主前田利常が定めた農政制度、地域の有力者を十村に任じて農村の管理と徴税を担わせた):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%9D%91%E5%88%B6 ↩

  19. 能美市「若杉窯」(1807 年の青木木米、本多貞吉と花坂の陶石、林八兵衛、1811 年の磁器焼成、若杉窯 1811〜1875):https://nomishizukan.com/kutani/treasure/products/52 ↩

  20. 小松市「登窯展示館」(1811 年の若杉窯、1836 年の火災で八幡へ、昭和 40 年ごろまで使われた連房式登窯、開館時間・休館日・入館無料):https://www.city.komatsu.lg.jp/kanko_bunka/kanko/2/6022.html ↩ ↩2

  21. 文化デジタルライブラリー「歌舞伎事典:勧進帳」(安宅の関所、初代團十郎の元禄期の上演、天保 11 年の 7 代目團十郎による作り直し、能を参考):https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modules/kabuki_dic/entry.php?entryid=1091 ↩

  22. 小松市「埴田の虫塚」(天保 10 年の虫害、木の実油での駆除、「23 俵にも及んだといわれる」、徳橋組十村役の田中三郎衛門、碑文の対処法、岩淵村の 16 俵、小松市指定史跡):https://www.city.komatsu.lg.jp/material/files/group/13/city002hanedanomushiduka.pdf ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5

  23. 国土交通省立山砂防事務所「安政5年の災害」(2 月 26 日八つ時、M7.0〜7.1、大鳶・小鳶の崩壊、約 100 か村・全壊 140〜150 戸・半壊 300〜400 戸「と伝えられています」、『地水見聞録』の 28 日夜の避難、3 月 10 日と 4 月 26 日の大土石流、加賀藩領で 140 人死亡・8,945 人負傷):https://www.hrr.mlit.go.jp/tateyama/jigyo/river/syousai01.html ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5

  24. 富山市「浮田家」(文政 11 年、加賀藩奥山廻役の役宅、国重要文化財、主屋・表門・土蔵、開館時間・休館日・観覧料):https://www.city.toyama.lg.jp/bunka/bunka/1010547/1010551/1007442.html ↩ ↩2 ↩3

  25. 金沢市立玉川図書館近世史料館 展示資料「異国船と加賀藩」(長者丸の 1839 年漂流・1843 年帰国、佐渡養順「漂海略記」、遠藤高璟らの「時規物語」、嘉永 2 年 3 月 17 日の斉泰前での披露。ペリー来航と斉泰・慶寧の意見(『加賀藩史料』による)。安政 2 年 4 月 14 日の宮腰近海と安政 6 年 4 月 24 日の伏木・魚津での目撃、ロシア船は館の推測。所口の測量。村井又兵衛の 7 月 12 日の注意書):https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/bakumatsuikokusen.pdf ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6 ↩7 ↩8

  26. 小松市『図説こまつの歴史』近世 39「外国奉行の巡見」pp.138–139(安政 5 年 11 月の堀織部正一行 120 余名、安宅での昼休み・見分、経費の約 6 割の借用、返済免除願いの却下):https://www.city.komatsu.lg.jp/material/files/group/39/339gaikoku.pdf ↩

  27. 小松市『図説こまつの歴史』近世 40「幕末混乱期の小松」pp.140–141(安政 6 年 6 月の安宅浦の異国船、文久 3 年 4 月からの農民の鉄砲稽古・銃卒取立て、元治元年 12 月の能美郡銃卒四隊 114 人):https://www.city.komatsu.lg.jp/material/files/group/39/340bakumatsu.pdf ↩ ↩2

  28. Ernest Satow, A Diplomat in Japan, London: Seeley, Service & Co., 1921, Chapter XX “Nanao to Ozaka Overland”, pp. 239–251(Commons のスキャン本):https://commons.wikimedia.org/wiki/File:A_diplomat_in_Japan;_the_inner_history_of_the_criticial_years_in_the_evolution_of_Japan_when_the_ports_were_opened_and_the_monarchy_restored_(IA_diplomatinjapani00sato).pdf ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5

  29. 石川県金沢城調査研究所 研究紀要『金沢城研究』第 13 号 目次(池田仁子「元治元年前田慶寧の退京・謹慎と金谷御殿における治療」。論文本文は未読):https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kanazawazyo/kiyou-13.html ↩

  30. 金沢市立玉川図書館近世史料館「前田慶寧退京につき前田斉泰親翰等留」(河地文庫 39.14-3、元治元年 8 月、近江海津):https://jmapps.ne.jp/amhr/det.html?data_id=20809 ↩

  31. 福井県文書館 平成 26 年企画展示「水戸天狗党敦賀に散る」(1864 年の筑波山蜂起、敦賀での包囲と降伏、約 350 名の処刑。「水戸浪士日記」に「武田伊賀守加賀藩上書」):https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2014exhb/2014exhb00.html ↩ ↩2

  32. 港都つるが観光協会「武田耕雲斎等の墓」(新保で捕縛、来迎寺で 353 人処刑、国史跡):https://tsuruga-kanko.jp/spot/history_culture/takedakounsai-grave/ ↩ ↩2

  33. 敦賀市「水戸烈士記念館(旧鯡蔵)について」(元治 2 年に浪士 823 名を収容、船町の荷蔵 16 棟、1954 年移築、2021〜2023 年の移築・修復、通常外観のみ):https://www.city.tsuruga.lg.jp/page/4430.html ↩ ↩2

  34. 石川県立図書館 SHOSHO「≪天狗党監禁の様子≫ 加賀藩石黒堅三郎手記」(慶応元年正月、石川県史第二編 p912。目録に「所蔵未確認」とあり、本文では目録のみに拠る):https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/detail/orgn/B999002108 ↩

  35. 富山市郷土博物館「博物館だより」第 16 号「とやま幕末物語<その3>」(利声のお札と金融混乱、富山方と江戸方。この号は安政 5 年の地震を M 約 6.8 とし、立山砂防事務所の 7.0〜7.1 と異なる):https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori16/tayori16.htm ↩ ↩2

  36. 富山市郷土博物館「博物館だより」第 48 号「富山藩人物帖 藤田呉江」(利保と利声の対立、1857 年の利声失脚と富田兵部切腹、山田嘉膳と利同、7 人の同盟と藤田呉江の離脱、6 人の建白と蟄居謹慎、1864 年の富山城内での嘉膳殺害と島田勝摩の切腹):https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori48/tayori48.htm ↩ ↩2 ↩3

  37. 富山県立図書館 古絵図・貴重書ギャラリー「前田文書-23」(島田勝摩の金沢表公事場での糺方口書と切腹の留帳):https://www.lib.pref.toyama.jp/gallery/collection/intro.aspx?isnvmngcd=1%3A1036 ↩

  38. 金沢市『卯辰山公園開園100年魅力向上計画』2-2 歴史的変遷 pp.3–4(慶寧の卯辰山開拓、養生所・撫育所・所作所、内藤誠斎『卯辰山開拓録』、養生所の慶応 3 年 6 月 11 日着手・10 月完成、明治維新での頓挫):https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/72/utatuyama.pdf ↩ ↩2 ↩3

  39. 金沢旅物語「卯辰山三社」(卯辰山天満宮は慶寧が竹沢御殿から移した、境内拝観無料):https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/spot/detail_10020.html ↩ ↩2

  40. 富山市郷土博物館 平成 30 年企画展「幕末動乱と富山藩」(1857 年のお家騒動、1864 年の家老暗殺、1859 年の富山湾の異国船、1868 年の越後出兵と南会津・庄内への転戦):https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/kikakuhaku/list/h30/3003/3003.html ↩

  41. 集英社『眠狂四郎殺法帖』下(集英社文庫、2019):https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-745890-9 ↩

  42. KADOKAWA「眠狂四郎殺法帖」(1963 年、大映、田中徳三監督、市川雷蔵主演):https://cinemakadokawa.jp/product/entry-5469.html ↩

  43. 集英社『全一冊 銭屋五兵衛と冒険者たち』(集英社文庫、2005):https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?jdcn=08747893946049000000 ↩

  44. 新潮社『天狗争乱』(新潮文庫、1997):https://www.shinchosha.co.jp/book/111738/ ↩

  45. NHKオンデマンド『青天を衝け』第 18 回「一橋の懐」:https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2021114180SA000/ ↩

  46. 富山市売薬資料館「展示品」(反魂丹旧記、柳行李、懸場帳、薬研、下枡、売薬版画):https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/minzokumingei/baiyaku/baiyaku_tenji.html ↩