このノートは北陸先史・飛鳥・奈良・平安・鎌倉の五篇に続くもの。今回は室町時代(1336–1573 年)に入る。後半の戦国期を含み、一向一揆と越中諸城の結末は 1580 年代初めまで書く。範囲は今回の旅で通る金沢、富山、小松が中心。
室町時代の北陸の主線は、加賀守護富樫氏と本願寺門徒の消長である。富樫氏は 1335 年に加賀守護となり守護所を野々市に置いたが、1488 年の長享の一揆で守護富樫政親が一向一揆に倒された。本願寺の側は、1390 年に綽如が越中井波に瑞泉寺を開き、1471 年に蓮如が越前吉崎で布教を始めて、加賀と越中の門徒組織が広がっていく。「金沢」という地名の確実な文献初見は 1546 年の「金沢坊舎」、すなわち本願寺の金沢御堂である。
一、室町時代とは
室町時代は一般に、足利尊氏が 1336 年に京都の政権を握り 1338 年に征夷大将軍となってから、1573 年に足利義昭が織田信長に京都を追われるまでを指す。前半の 60 年ほどは南北朝の並立期、1467 年の応仁の乱以降は戦国期にあたる1。幕府は京都室町に置かれ、諸国は守護大名が治めた。鎌倉時代の守護が軍事中心だったのに対し、室町の守護はしだいに国衙の職権を取り込み、一国の実質的な領主になっていく。
京都東山の慈照寺。北陸の守護補任、幕府の政争、本願寺の動きは、この時代いずれも京都につながっていた。出典:Wikimedia Commons
北陸がこの時代に残したもので見に行けるものは、前の五篇より多い。守護所、御堂、寺院、山城、窯場、湊である。文字史料は守護家の補任記録、寺社文書、本願寺宗主の日記、地方の発掘報告が中心で、中央の律令文書や国司日記はもう主な出所ではない。
二、加賀守護富樫氏と 1488 年長享の一揆
鎌倉篇で触れた富樫氏は、野々市市と金沢市を流れる高橋川中流域の富樫郷を拠点としていた。建武 2 年(1335)、富樫高家が一族ではじめて加賀守護となり、守護所を野々市に置いた。これが富樫館である2。室町加賀の政治の中心は野々市であって、金沢ではない。
富樫氏の混乱は家の中から始まった。嘉吉元年(1441)、富樫教家は将軍足利義教を怒らせて守護の身分を奪われ、弟の泰高が守護になった3。以後、富樫氏は長く二系に分裂する。長享 2 年(1488)、一向一揆の人々は政親の叔父にあたる泰高を同盟の中心にすえ、守護富樫政親に対して反乱を起こした。泰高は野々市の大乗寺に陣を置き、一揆方は政親の籠もる高尾城を取り囲む。合戦は 6 月 5 日に始まり、6 日の額口の激戦で一向一揆側の勝利が決定的となり、政親は 9 日に自害した3。
応仁の乱期の将軍足利義政。加賀守護家の内紛が広がったのは、幕府自身が調停力を失っていたこの時期である。出典:Wikimedia Commons
長享の一揆のあと、加賀一向一揆は富樫氏を名目上の守護としながら、実質は本願寺門徒による自主管理の体制をとり、それは 1580 年に織田方が金沢坊を中核とする北加賀を占領するまで続いた4。よく引かれる「百姓ノ持タル国」の語は、蓮如の子実悟の『実悟記拾遺』に由来し、この自治状態を後世が概括するときに切り取られてきた一句である。同時代の公式な呼称ではない4。
野々市の富樫館跡と金沢南部の高尾城跡は車で 20 分ほどの距離にある。高尾城址見晴らし台からは金沢市街と日本海が見える5。
三、蓮如と本願寺の北陸ネットワーク
北陸の真宗が広がったのは、寺院・血縁・講のネットワークによる。
本願寺第 8 世蓮如。1471 年に越前吉崎で坊舎を建てて布教を始めて以降、本願寺の勢力は加賀で本格的に広がった。出典:Wikimedia Commons
最初の一歩は越中だった。明徳元年(1390)、本願寺第 5 世綽如が井波に瑞泉寺を開く。綽如は『勧進状』を作り、加賀・能登・越中・越後・信濃・飛騨の有縁の人々から建立の浄財を募った6。半世紀後の嘉吉 2 年(1442)、瑞泉寺 2 世如乗が加賀の二俣に本泉寺を開創し、両寺を兼任した7。本泉寺の庭「九山八海の庭」は蓮如が文明 3 年(1471)に造園したと伝えられ、石川県は室町期の典型的な庭であり県下最古の中世庭園のひとつとしている7。作庭者は寺伝、年代は文化財としての評価である。
文明 3 年(1471)、蓮如が越前吉崎に坊舎を建てて布教を始めると、加賀でも本願寺の勢力が本格的に広がった8。小松ではその組織のかたちがよく見える。蓮如三男の蓮綱は、兄で二俣本泉寺の住持だった蓮乗に招かれて能美郡池城に坊を開き、次いで古屋に移り、文明十年頃に波佐谷へ移った。蓮綱は松の木が多いことにちなんで古屋を松岡と改称し、その坊も「松岡寺」と称した8。蓮綱は「波佐谷殿」と呼ばれ、若松本泉寺蓮悟・山田光教寺蓮誓とともに「加州三ヶ寺」「三山の大坊主」と称された。さらに能美郡山内の鮎滝に支坊を開いて能美郡の門徒を糾合し、加賀一向一揆における能美郡一揆を先導する立場になる8。

文明 13 年(1481)春、福光城主石黒光義が率いる瑞泉寺討伐軍と瑞泉寺の一向宗衆徒が田屋の山田川河原一帯で戦い、同資料は、瑞泉寺側が大勝したという、衆徒はさらに野尻城主を降伏させ砺波郡全域を勢力下に置いたと伝えている9。瑞泉寺自身の年表は、相手を石黒氏・惣海寺衆と記している6。永正 3 年(1506)には一揆衆が般若野で越後の長尾能景を破った6。般若野は鎌倉篇で書いた 1221 年承久の乱の北陸道軍の戦場でもある。
本泉寺は金沢東部の医王山山麓、瑞泉寺は越中井波にあり、その間は山越えの道である。如乗が両寺を兼任しており、加賀と越中の真宗拠点はこの道でつながっていた。
四、金沢の登場:1546 年の金沢御堂
石川県金沢城公園の資料によれば、金沢御堂は天文 15 年(1546)、大坂本願寺 10 代証如によって本願寺の末寺としてこの地に創建されたと伝えられ、周囲には寺内町が形成されて北陸門徒の信仰の中心地となった10。
今日の金沢城は前田氏の近世城郭だが、この小立野台地の端部の最初の歴史層は本願寺の金沢御堂と寺内町である。出典:Wikimedia Commons
「金沢」という地名の文献初見も同じ年にある。金沢市図書館の整理によれば、『日本歴史地名大系 17 石川県』は『天文日記』天文十五年(1546)十月の「金沢坊舎」(金沢御堂)を早い例として挙げ、『加能郷土辞彙』は同じ月の「加州金沢坊舎」を引く。引かれる日条は二十九日と二十五日で異なるが、年月は一致している11。『天文日記』は本願寺第十世証如が天文五年(1536)正月から天文二十三年八月まで書いた 19 年間の日記で、本願寺の行事や末寺・門弟・宮廷・公家・大名・町衆との交渉が具体的に記されている12。
兼六園のそばの金城霊沢には芋掘藤五郎の地名由来伝承がついている。『角川日本地名大辞典』は小立野台地で砂金採掘を行った「金洗沢」による説として記し、『石川県史』第 2 編に藤五郎の物語が収められている11。ついでに言えば、今の「かなざわ」という訓が定まったのは慶応 2 年(1866)五月で、それ以前の近世から幕末には「かなざわ」「かねざわ」の二通りの読みがあった11。
五、越中のもう半分:神保氏、富山城と増山城
越中には真宗勢力のほかに、守護代の神保氏、新川郡の椎名氏、砺波の石黒氏がいて、そこに越後の長尾・上杉氏の侵攻が重なる。
現在の天守は近現代の模擬建築で、中世の富山城はこの位置にはなかった。出典:Wikimedia Commons
富山市の埋蔵文化財資料によれば、神保氏の築城年代には諸説があり、永正 16 年(1519)から永禄 3 年(1560)頃までとされる。なかでも久保尚文が提唱した天文 12 年(1543)説が、当時の情勢からみて現在最も有力とされている13。長職が神保氏の惣領的地位につくと新川郡へ勢力を伸ばし、天文 12 年頃には富山郷付近を軍事境界線として椎名氏との抗争が激化した13。観光資料ではしばしば「1543 年に神保長職が築いた」と断定的に書かれるが、それは最有力の一説を定説として扱ったものである。
永禄 3 年(1560)、富山城は上杉謙信勢に攻められ、長職は西の増山城(砺波市)へ逃れた。その後、城の支配者は上杉・椎名・神保・一向一揆勢のあいだで目まぐるしく変わる。天正 9 年(1581)に佐々成政が入城し、天正 13 年(1585)の秀吉による越中攻めで成政は戦わずして開城、秀吉は前田利長に命じて富山城を破却させた13。
砺波平野東縁、標高約 120m の丘陵。西側を流れる和田川が深い谷をつくり、天然の外堀となっている。出典:Wikimedia Commons
増山城は魚津の松倉城、高岡の守山城と並んで越中三大山城に数えられる14。南北朝の史料にみえる「和田城」が増山城の初見とされ、守護畠山氏の守護代神保氏歴代が城主となった。永正 3 年(1506)の神保慶宗と越後長尾能景の戦いをはじめ、神保氏と越後上杉氏の戦いがここでしばしば行われている14。和田川西岸の城下町は、堀を伴う長さ約 80m の南北の土塁をはさんで東に「下町」、西に「寺土居町」があった。出土遺物は国産・中国産の陶磁器類、釘、銭貨、砥石、碁石、漆塗椀などの木製品、そして炭化米である14。平成 21 年(2009)7 月 23 日に国指定史跡となった14。
六、小松の中世:湊、窯場、山城
『勧進帳』の伝承の層は鎌倉篇で書いた。この節で見るのは、同じ土地の室町時代の湊・窯場・山城である。
小松市の安宅中世墓群の資料によれば、ここは梯川左岸の河口近くに位置する中世の石塔群で、板碑や五輪塔などが発見されている。安宅湊は南加賀と日本海を繋ぐ交通の要衝で、室町時代の公家日記『冷泉為広下向日記』には聖興寺で一泊した記述や、松原、安宅の浜の名前が出てくる15。年代はもう少し詰められる。小松市『図説こまつの歴史』中世篇によれば、冷泉為広は延徳 3 年(1491)三月、越後に下向する管領細川政元一行に加わって加賀を通り、帰途は四月十九日に野々市から安宅に入って聖興寺で一泊し、浜通り道を進んだ16。同じ資料には、梯川に架かる梯橋を渡って白江の桜を眺め、本折で絹を織る人を見て和歌を詠んだことも記されている16。安宅は能と歌舞伎では舞台だが——能『安宅』は作者不詳、室町時代の成立で、記録に残る最古の上演は寛正 6 年(1465)、勧進帳を読み上げる場面はこの作で初めて登場する17——冷泉為広の日記のなかでは、道の途中の一つの宿である。
中世の南加賀を往来する街道には、海岸沿いを走る浜通り道と、内陸の平野部を通る中通り道があった。中通り道は柴山潟・今江潟・木場潟の間を抜け、加賀絹の産地であり南加賀の流通の拠点であった本折にいたる16。文明 18 年(1486)六月に関東・東北に向かった聖護院道興もこの道を通っている16。
平安時代末頃、尾張から常滑焼の技術者が招かれ、小松市戸津町から那谷町の丘陵地で中世陶器「加賀焼」の生産が始まった。小松市域では 14 ヶ所 46 基の窯跡が確認されていて、主に壺・甕・鉢が作られ、遺骨を納める蔵骨器にも使われた。押印文様は幾何学文や花文など 93 種が確認されており、石川県内を中心に福井県北部から富山県西部まで流通した18。那谷ダイテンノウダニ 2 号窯から出土した大甕は口径 56cm、高さ 75cm を測り、肩部には加賀焼独自の車輪状の二重菊花文の押印がある18。この生産は室町時代前期まで、約 200 年間続いた18。
波佐谷城跡は梯川上流、大杉谷川沿いの高台に築かれた山城で、主な時代は室町、一向一揆方の武将宇津呂氏の居城と伝わる。発掘で櫓台や石積みなどの城の構造を示す部分のほか、土塁や堀切などの防御施設もよく残っていることが明らかになった。郭は西と東に分かれ、西郭は建物が配置された居住域、東郭はより高所の防御的な役割をもっていた19。出土遺物は土師器皿や陶磁器片である19。峰続きにあるのが蓮綱の松岡寺跡である8。寺と山城が隣り合っている。享禄 4 年(1531)の享禄の錯乱で松岡寺は敗れ、蓮綱らは没して寺は一時中絶した8。
七、白山の旧寺社と真宗の競合
小松南部には真宗が入る以前から、白山信仰と中宮八院による宗教勢力があった。
白山信仰は加賀・越前・美濃の三か所に馬場を設けた。加賀馬場の中心が白山比咩神社である。出典:Wikimedia Commons
白山信仰は加賀(石川県)、越前(福井県)、美濃(岐阜県)に拠点となる馬場を設けており、加賀馬場の中心が現在の白山比咩神社である20。中宮八院は能美郡軽海郷付近を核として、護国寺・昌隆寺・松谷寺・蓮花寺・善興寺・長寛寺・涌泉寺の七ヶ寺と周辺の隆明寺から構成され、能美・江沼両郡を信仰圏とする宗教権力のネットワークをなしていた21。安元二年(1176)八月、加賀の目代藤原師経が涌泉寺を焼打ちした事件は、八院衆徒の国衙襲撃に発展した21。
八院の勢威は南北朝期に衰える。建武二年(1335)三月には建武政権の雑訴決断所が中宮長吏源光らの能美荘進出を濫妨として退けており、康永年中(1342–45)に至って八院は没落する21。事情は定かでないが、内乱の過程で八院衆徒が南朝方に味方したことが原因とされている21。江沼郡三个寺のうちの那谷寺は内乱の当初から足利尊氏方=北朝に属し、中宮系寺社のなかで唯一その後も存続・発展した。のちに天台宗を離れ、真言宗の山城観勝寺や醍醐寺金剛王院との関係を深めている21。
那谷寺本堂の大悲閣。岩壁に沿って建つ舞台造で、『白山之記』に白山三カ寺のひとつとされる古刹である。出典:Wikimedia Commons
その那谷寺も一向一揆による戦火で荒廃し、江戸初期に加賀前田家三代利常が再建した22。加賀の宗教的衝突は、新興の本願寺門徒と既存の白山寺社が同じ山麓で重なりあった競合だった。
八、白山麓の最後の抵抗:鳥越城と二曲城
加賀一向一揆の終点は白山麓にある。鳥越城は手取川とその支流大日川に挟まれた標高 312 メートルの丘陵に、二曲城は大日川対岸の標高 268 メートルの独立峯にあり、両者は国指定史跡「鳥越城跡附二曲城跡」となっている。織田信長の攻勢に最後まで抵抗した白山麓一向一揆の拠点で、鈴木出羽守が率いる山内衆が守っていた23。

1580 年に柴田勝家によって金沢御坊が陥落したあとも山内衆は抵抗を続け、翌 1581 年に蜂起して両城を奪回したが、織田方の佐久間盛政によって鎮圧された。さらに翌 1582 年に再度蜂起するが、300 人余りが処刑され、加賀一向一揆は壊滅する23。世界大百科事典は、1582 年の山内(手取谷)の一揆の壊滅をもって「百姓ノ持タル国」といわれた自主管理の歴史が閉じたとしている4。
鳥越城からは青磁三脚香炉、白磁皿、染付碗、天目茶碗といった陶磁器類と、刀、鉄砲玉といった武器類が出ている23。儀礼の器、日用の器、武器が同じ場所から出ている。
佐久間盛政が金沢御堂跡の最初の城主となり、前田利家は 1583 年に能登七尾から金沢城に入る10。佐々成政は 1581 年に井波瑞泉寺を破却し6、同年富山城に入った13。加賀と越中はこれで織豊政権の支配に入り、加賀百万石の近世が始まる。
九、いま訪ねられる場所
本文に出てきた場所は、多くが実際に訪ねられる。
| 地域 | 場所 | 種類 | 説明 |
|---|---|---|---|
| 金沢 | 金沢城公園 | 公園・史跡 | 近世城郭の下の最初の層は 1546 年の金沢御堂と寺内町10 |
| 金沢 | 二俣本泉寺 | 寺院・名勝 | 九山八海の庭は県下最古の中世庭園のひとつ;参拝は寺に要確認7 |
| 金沢 | 高尾城跡・高尾城址見晴らし台 | 城跡・展望 | 1488 年に富樫政親が滅んだ地;展望台から金沢市街と日本海5 |
| 野々市 | 富樫館跡碑 | 史跡碑 | 室町加賀の守護所伝承地、野々市工大前駅そば2 |
| 白山 | 鳥越一向一揆歴史館 | 展示施設 | 約 20 分の映像と鳥越城出土品の常設展示;一般 310 円、月曜休館24 |
| 白山 | 鳥越城跡 | 国指定史跡 | 標高 312m の山城;枡形門一帯で石垣が検出されている23。本丸門などは現地の復元建築 |
| 白山 | 白山比咩神社 | 神社 | 白山信仰加賀馬場の中心20 |
| 小松 | 那谷寺 | 寺院 | 白山三カ寺のひとつ;一向一揆の戦火のあと前田利常が再建22 |
| 小松 | 安宅住吉神社・安宅の関 | 神社・史跡 | 『勧進帳』の舞台であり、梯川河口の中世の湊でもある15 |
| 小松 | 小松市埋蔵文化財センター | 展示施設 | 加賀焼と一向一揆の山城関係の出土品18 |
| 小松 | 波佐谷城跡 | 山城跡 | 一向一揆の山城、隣は松岡寺跡;山地の史跡で路況は要確認19 |
| 南砺 | 井波別院瑞泉寺 | 寺院 | 1390 年に綽如が開いた越中真宗の中核6 |
| 富山 | 富山市郷土博物館(富山城址公園) | 展示施設 | 常設展に「中世の富山城」の主題を含む25 |
| 砺波 | 増山城跡 | 国指定史跡 | 越中三大山城のひとつ、和田川を外堀とし対岸に城下町遺跡14 |
| あわら | 吉崎御坊跡 | 史跡 | 1471 年からの蓮如の北陸布教拠点、小松から南へ寄り道できる8 |
参考資料
Footnotes
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室町時代(1336/1338 年から 1573 年まで、南北朝期と戦国期):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E6%99%82%E4%BB%A3 ↩
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野々市市「野々市と富樫氏」(富樫郷、建武 2 年に富樫高家が加賀守護、守護所を野々市に):https://www.city.nonoichi.lg.jp/soshiki/37/64613.html ;野々市市「観光マップ 富樫館跡」:https://www.city.nonoichi.lg.jp/soshiki/9/2617.html ↩ ↩2
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野々市市「富樫氏の争いと長享の一揆」(1441 年教家失脚、1488 年の一揆、大乗寺の陣、6 月 5 日開戦、6 日額口の激戦、9 日政親自害):https://www.city.nonoichi.lg.jp/soshiki/37/1793.html ↩ ↩2
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加賀国(改訂新版 世界大百科事典、コトバンク;長享の一揆、門徒による自主管理、1582 年の山内一揆壊滅と「百姓ノ持タル国」):https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%9B%BD-43381 ;「百姓ノ持タル国」の語は蓮如の子実悟の『実悟記拾遺』(「近年ハ百姓ノ持タル国ノヤウニナリ行キ候」)に由来し、後世の概括として引かれる語で、同時代の公式呼称ではない:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C ↩ ↩2 ↩3
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金沢市「高尾城跡と高尾城址見晴らし台千本桜」:https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaihogoka/gyomuannai/3/1/4/7/30868.html ↩ ↩2
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井波別院瑞泉寺「瑞泉寺の歴史」(明徳元年に綽如が開創、『勧進状』と六か国の浄財):https://inamibetuin-zuisen-ji.amebaownd.com/pages/1697182/page_201802262241 ;同「略年表」(1469 年蓮乗に親鸞聖人絵像下付、1481 年田屋川原合戦、1506 年般若野で長尾能景を破る、1581 年佐々成政の破却):https://inamibetuin-zuisen-ji.amebaownd.com/pages/1697259/page_201802262259 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5
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石川県「二俣本泉寺九山八海の庭」(嘉吉 2 年如乗開創、蓮如の文明 3 年造園の伝承、室町期の典型的な庭、県下最古の中世庭園):https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/siseki/ken2-2.html ;金沢市「本泉寺山門」(如乗は越中井波瑞泉寺 2 世、両寺を兼任):https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaihogoka/gyomuannai/3/1/1/siteibunkazai/1/5863.html ↩ ↩2 ↩3
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小松市『図説こまつの歴史』中世 15「波佐谷松岡寺と能美郡門徒」(1471 年蓮如の吉崎布教、蓮綱が兄蓮乗に招かれて開坊、文明十年頃に波佐谷へ、加州三ヶ寺、鮎滝の支坊、享禄 4 年の一揆で敗北):https://www.city.komatsu.lg.jp/material/files/group/39/215hasadani.pdf ;小松市立博物館「松岡寺の旗」:https://jmapps.ne.jp/kmthk/det.html?data_id=2955 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6
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南砺市文化芸術アーカイブス「田屋川原古戦場」(文明 13 年春、石黒光義、山田川河原、瑞泉寺側の大勝、砺波郡全域):https://culture-archives.city.nanto.toyama.jp/culture/bunkazai/bunkazai0193/ ↩
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石川県金沢城公園「金沢城の歴史」(天文 15 年に証如が金沢御堂を創建、寺内町、天正 8 年柴田勝家が陥落させる、前田利家の入城):https://shiro-niwa.pref.ishikawa.lg.jp/kanazawa-castle/about/history.php ↩ ↩2 ↩3
-
レファレンス協同データベース(金沢市図書館)「金沢の由来について」(『日本歴史地名大系 17 石川県』は『天文日記』天文一五年一〇月二九日条「金沢坊舎」、『加能郷土辞彙』は十月廿五日条「加州金沢坊舎」、『角川日本地名大辞典』の金洗沢説):https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000225450&page=ref_view ;同「金沢の読みについて」(慶応 2 年五月十三日「金沢の訓をかなざはと定む」、『加賀藩史料 藩末篇下巻』):https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000275394&page=ref_view ↩ ↩2 ↩3
-
文化遺産オンライン『天文日記』(本願寺第十世証如、天文五年正月~天文二十三年八月、本願寺蔵):https://online.bunka.go.jp/db/heritages/detail/158511 ↩
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富山市埋蔵文化財センター「富山城 戦国時代編1」(築城年代は永正 16 年~永禄 3 年頃までの諸説、久保尚文の天文 12 年説が最有力):https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/history/sengoku1.htm ;同「戦国時代編2」(永禄 3 年上杉謙信の攻撃と長職の増山城への退去、天正 9 年佐々成政入城、天正 13 年秀吉の越中攻めと破却):https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/history/sengoku2.htm ↩ ↩2 ↩3 ↩4
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砺波市「増山城跡」(砺波平野東縁・標高約 120m、和田川、南北朝史料の「和田城」が初見、城下町の土塁と下町/寺土居町、出土の陶磁器・銭貨・砥石・碁石・漆塗椀・炭化米、平成 21 年 7 月 23 日国指定):https://www.city.tonami.lg.jp/photop/9602p/?print=page ;とやま学遊ネット「増山城跡」(守護畠山氏の守護代神保氏歴代が城主、永正 3 年の神保慶宗と長尾能景の戦い):https://www.tkc.pref.toyama.jp/search/stdydtl.aspx?stdycd=00083677 ;砺波市観光「国指定史跡 増山城跡」(越中三大山城):https://www.city.tonami.lg.jp/kanko/midokoro/755p/ ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5
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小松市「安宅中世墓群」(梯川左岸の河口近く、板碑と五輪塔、安宅湊は南加賀と日本海を繋ぐ交通の要衝、『冷泉為広下向日記』の聖興寺一泊と松原・安宅の浜):https://www.city.komatsu.lg.jp/soshiki/1052/kokabetsurekishijiman/atk_k/atk.html ↩ ↩2
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小松市『図説こまつの歴史』中世 13「戦国小松を旅した人々」(浜通り道と中通り道、本折と加賀絹、文明十八年の聖護院道興『廻国雑記』、延徳三年三月の冷泉為広と細川政元の越後下向、四月十九日野々市→安宅→聖興寺一泊、梯橋と白江の桜):https://www.city.komatsu.lg.jp/material/files/group/39/213sengoku.pdf ↩ ↩2 ↩3 ↩4
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能『安宅』(作者不詳、室町時代の成立、記録に残る最古の上演は寛正 6 年(1465);勧進帳の読み上げはこの作で初出;観世小次郎信光作者説には年代の疑義):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85_(%E8%83%BD) ;安宅住吉神社「勧進帳」(『義経記』は 15 世紀初期の成立、歌舞伎『勧進帳』は三世並木五瓶の脚色、天保 11 年江戸河原崎座で七世市川團十郎により初演):https://ataka.or.jp/pages/kanjinntyou.html ↩
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小松市「加賀窯」(常滑系技術者、戸津町~那谷町の丘陵地、14 ヶ所 46 基の窯跡、壺・甕・鉢と蔵骨器、押印 93 種、福井県北部から富山県西部まで流通):https://www.city.komatsu.lg.jp/soshiki/1052/kokabetsurekishijiman/aw_k/kg_pt.html ;小松市『図説こまつの歴史』中世 10「加賀焼の生産と流通」(那谷ダイテンノウダニ 2 号窯の大甕は口径 56cm・高さ 75cm、車輪状の二重菊花文押印、生産は室町時代前期まで約 200 年間):https://www.city.komatsu.lg.jp/material/files/group/39/210kagayaki.pdf ↩ ↩2 ↩3 ↩4
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小松市「波佐谷城跡」(時代は室町、梯川上流と大杉谷川沿いの高台、一向一揆方の武将宇津呂氏の居城と伝わる、櫓台と石積み・土塁・堀切、東西の二郭、出土の土師器皿や陶磁器片):https://www.city.komatsu.lg.jp/soshiki/1052/kokabetsurekishijiman/stm_k/hstn_c.html ↩ ↩2 ↩3
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白山比咩神社「白山信仰・奥宮」(加賀・越前・美濃の三馬場、加賀馬場の中心が白山比咩神社):https://www.shirayama.or.jp/about/hakusan-worship/ ↩ ↩2
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小松市『図説こまつの歴史』中世 7「中宮八院と那谷寺の盛衰」(中宮八院の七ヶ寺と隆明寺、安元二年の藤原師経による涌泉寺焼打ちと国衙襲撃、建武二年の雑訴決断所、康永年中の八院没落と南朝方説、那谷寺は北朝方で存続、のちに真言宗観勝寺・醍醐寺金剛王院と関係を深める):https://www.city.komatsu.lg.jp/material/files/group/39/207tyugu.pdf ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5
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日本遺産「那谷寺」(『白山之記』に白山三カ寺のひとつ、一向一揆による戦火で荒廃、江戸初期に前田利常が再建):https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/1999/ ;小松市「那谷寺」(養老元年に泰澄大師が千手観音を安置した創建伝承、前田利常の再建):https://www.city.komatsu.lg.jp/kanko_bunka/kanko/2/6608.html ↩ ↩2
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石川県「鳥越城跡附二曲城跡」(鳥越城は標高 312m、二曲城は標高 268m、手取川と大日川、山内衆と鈴木出羽守、1580 年の金沢御坊陥落後も抵抗、1581 年奪回のち佐久間盛政が鎮圧、1582 年に 300 人余りが処刑、出土の青磁三脚香炉・白磁皿・染付碗・天目茶碗・刀・鉄砲玉):https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/siseki/1-7.html ↩ ↩2 ↩3 ↩4
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白山ミュージアムポータル「鳥越一向一揆歴史館」(約 20 分の映像、鳥越城出土品の常設展示、一般 310 円・中学生以下無料、月曜休館):https://www.hakusan-museum.jp/ikkouikki/ ↩
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富山市郷土博物館 概要:https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/outline/main.html ↩