このノートは北陸先史・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町の六篇に続くもの。今回は戦国後期から織豊時代に入り、1570 年代から 1600 年の浅井畷の戦いまでを書く。金沢城天守の結末は 1602 年まで、浅井畷の供養塔・屏風と後世の作品は後段にまとめた。範囲は今回の旅で通る金沢、富山、小松が中心で、能登の七尾と末森を加える。近世以前の月日は当時の日本の暦(和暦)によるもので、特記しない限りグレゴリオ暦の月日には換算していない。年には西暦を併記した。

室町篇は 1580 年代初めまで書いた。金沢御坊の陥落、白山麓一揆の終結、佐々成政の富山城入城、前田利家の金沢城入城である。今回は同じ時期のもう一本の線、すなわち上杉・織田両勢力による能登と越中の争奪と、信長の死後に北陸の諸将が羽柴秀吉のもとで領地を組み直される過程を見る。三地にはこの時期それぞれ代表的な出来事がある。金沢は前田利家の入城と築城、富山は佐々成政と 1585 年の秀吉の越中攻め、小松は 1600 年の浅井畷の戦いである。

本文に出てくる戦国後期関連の地点。城跡や古戦場の多くは範囲をもつ地点で、代表点で示した。マーカーをクリックすると Google Maps で開く。地図の表記は中国語(繁体字)。地図:© OpenStreetMap contributors © CARTO。⚠ お出かけ前に公式情報でご確認ください。

一、戦国後期と織豊時代

戦国時代は一般に、応仁の乱(1467–1477 年)から織田信長の上洛(永禄 11 年、1568 年)までとされるが、統一権力と地域権力のどちらを重視するかで始期・終期は変わる1。安土桃山時代(1573–1603 年)は信長と秀吉が中央政権を握った時代で、織豊時代とも呼ばれる1。1568 年を戦国時代の下限としても、北陸の戦いはその後の織豊期まで続く。加賀の一向一揆は 1580 年代初めに終わり、越中の佐々成政の降伏は 1585 年、小松の戦いは 1600 年である。

織田信長像 豊臣秀吉像

織田信長像(左、狩野宗秀筆、Commons は原本を 1583 年作とする)と豊臣秀吉像(右、狩野光信筆、1601 年頃、高台寺蔵)。出典:Wikimedia Commons(左)、Wikimedia Commons(右)

小松市『図説こまつの歴史』は、織田信長の南加賀進攻を天正 3 年(1575)八月の越前攻めから説き起こす。信長軍は朝倉義景の没後に一向一揆の勢力下にあった越前へ進攻し、一揆勢は敗北、加賀の江沼・能美両郡まで信長軍の手に入った。越前北庄城は柴田勝家に任され、不破光治・佐々成政・前田利家が目付として府中周辺に配置された2。

二、1577 年:七尾城の落城と織田軍の南加賀進攻

七尾城は能登守護畠山氏が 16 世紀前半に築いた山城で、城域は南北約 2.5km、東西約 1.0km、面積約 252.6ha。本丸の標高は 305m、城下との比高は約 250m ある3。天正 5 年(1577)の上杉謙信の攻撃で落城し、169 年にわたる畠山氏の能登支配が終わった3。

七尾城跡 調度丸

七尾城の山上、調度丸付近。奥に石垣が見える。出典:Wikimedia Commons

七尾市が観光庁と協力して作った英語解説は次のように書く。謙信は 1576 年と 1577 年の二度城を囲んだ。城内では疫病が広がり、当主畠山義隆とその幼い子の春王丸が相次いで亡くなった。最後は、記録によれば重臣遊佐続光の一派が城内で蜂起し、親織田の長続連を殺して城門を開き上杉軍を迎え入れた4。畠山方は織田信長に援軍を求めたが間に合わなかった4。

上杉謙信像(上杉神社蔵、17 世紀)

越後の上杉謙信。1577 年に七尾城を落とし、翌年春に没した。出典:Wikimedia Commons

同じ年、織田方の軍勢は南加賀にいた。小松市史によれば、天正 5 年八月、信長軍は長連龍の援軍要請もあって柴田勝家を大将とし、丹羽長秀・羽柴秀吉・滝川一益・前田利家らが小松、本折、安宅を攻略、手取川を越えて富樫に進攻した。九月十五日の七尾城落城の報に秀吉は早々に撤退し、他の部隊も二十三日に一斉に撤退しようとしたところ謙信の追撃を受け、増水した手取川に流されて大敗した2。ここまでは小松市史の叙述である。市史の紙面には『信長公記』巻十・天正五年八月八日条の原本写真(京都・陽明文庫所蔵)が載る2。『信長公記』のこの条が記すのは出兵と焼き払いで、「湊川・手取川打ち越し、小松村・本折村・阿多賀・富樫、所々焼き払い、在陣なり」、そして秀吉が信長に届けずに帰陣して怒りを買ったことであり、秀吉が撤退した理由は書かれていない5。

手取川の戦いの規模には議論がある。歴史研究者の乃至政彦は、この合戦の実像を示す史料は『歴代古案』所収の誤字の多い謙信書状の写し一枚だけとされ、信頼性が高いとされる『信長公記』に交戦の記述がないため、合戦の規模と実在を疑問視する向きがあると整理している5。このノートでは「上杉軍の追撃と織田軍の撤退」までにとどめ、具体的な兵数や死傷者数は採らない。

謙信は翌年(1578)春に没した4。天正 9 年(1581)、信長から能登一国を与えられた前田利家が七尾城に入る。天正 10 年から 17 年(1582–1589)頃、利家は港に近い小丸山に新たに城を築き、七尾城は城としての機能を失った3。英語解説はこの移転の理由を、港の近くが交通と統治に便利だったためと説明している4。

三、1582 年:魚津城と本能寺の変

越中東部の魚津城は、15 世紀ごろ椎名氏が松倉城の支城として築いたといわれ、永禄 12 年(1569)に上杉謙信が椎名氏を破ってからは上杉氏の支配下に入った。北陸道の押さえであり、松倉城への主要ルートと考えられる角川河口にあって、陸海の交通の要衝だった6。

魚津城跡(魚津市)

城跡はいまの魚津市街の中心にあり、現地は石碑と植え込みになっている。撮影:立花左近、ライセンス:CC BY-SA 3.0、WebP に変換。出典:Wikimedia Commons

魚津市は天正 10 年(1582)の経過を次のように示す6。

  • 三月、柴田勝家・前田利家・佐々成政らの織田方連合軍が、上杉軍の立てこもる魚津城を包囲。
  • 五月十五日、魚津城救援のため上杉景勝が援軍を率いて天神山に布陣。
  • 五月二十六日、織田方の軍勢が信濃・上野方面から越後へ進攻。景勝は春日山城へ戻るため、松倉城の軍勢とともに天神山城から越後へ撤退。
  • 六月二日、本能寺の変。信長死去。
  • 六月三日、織田方連合軍が魚津城を落城させる。
  • 六月四日以降、信長の死が知らされ織田軍が撤退。上杉方が魚津城を奪還。

以上の月日は天正十年当時の日本の暦によるもので、グレゴリオ暦の月日には換算していない。天正 11 年(1583)、佐々成政が魚津城と松倉城を攻略し、越中をほぼ平定した6。

四、金沢城:1583 年以後の前田氏の築城

石川県金沢城調査研究所の年表は、天正 8 年(1580)に佐久間盛政が入城して土塁や堀を整備し、天正 11 年(1583)の賤ヶ岳の合戦で盛政が敗れたのち前田利家が入城、以後前田家が 14 代にわたって金沢城を居城としたと記す7。この部分は室町篇でも触れたので、ここでは入城後に残された築城の痕跡を見る。

前田利家像(作者不詳)

前田利家。1581 年に能登を得て、1583 年に金沢城へ入った。出典:Wikimedia Commons

  • 天守:金沢城公園の資料によれば、天守は天正 14 年(1586)から 15 年(1587)に造営されたと考えられている。天正 14 年六月の利家朱印状には天守造営のため鉄の輸送を命じたことが記されるが、天守の形を示す図面は確認されておらず、正確な位置もわかっていない8。天守は慶長 7 年(1602)十月三十日に落雷で焼失し、翌年その代わりに三階櫓が建てられた8。年表は天正 15 年(1587)に南部家臣北信愛が利家のもてなしを受け、天守を案内されたことも記す7。
  • 石垣職人:天正 15 年(1587)に利家が知行 100 俵で召し抱えた穴生(穴太)源助が、加賀の穴生の最初である9。
  • 石材:文禄元年(1592)から戸室石を使った本格的な石垣構築が始まり、まず東ノ丸東面・北面と本丸西面が築かれた7。戸室石は城の東 8km の戸室山山麓から切り出された。初期には河原石も用いられている9。
金沢城の石垣

金沢城の石垣は江戸時代に何度も修築されており、現地の石垣をそのまま利家時代の姿とみなすことはできない。出典:Wikimedia Commons

年表は 1592 年以降も、寛永の大火・宝暦の大火後の再建や度重なる石垣修築を挙げており、現存の石垣は時期の異なる工事の集まりである7。

五、1584 年:末森合戦

末森城はいまの宝達志水町、標高 138.8m の末森山にある中世から近世初期の山城である10。天正 12 年(1584)、越中富山城主佐々成政の攻撃を受けたが、城主奥村永福が死守し、前田利家の来援で落城を免れた。町の説明はこの戦いを「加賀百万石の基礎となったと伝わる」と書く10。本丸から若宮丸にかけての主要郭が石川県の史跡に指定されている10。

末森城跡(宝達志水町)

末森山の城跡。名古屋市千種区にも同名の末森城があるので、資料や地図を調べるときは区別が必要。撮影:ja:user:Akimoto、ライセンス:CC BY-SA 3.0、WebP に変換。出典:Wikimedia Commons

この年は小牧・長久手の戦いの前後で、成政は徳川家康と手を組んで秀吉に対抗していた1112。小松市史の秀吉による動員表では、天正 12 年九月、対象・敵を佐々成政、動員先を「能登 末森」とする欄に、溝口秀勝・村上頼勝ら計 3000 余兵が金沢(野々市・泉野)の守備についたと記し、津幡待機説も併記する13。宝達志水町の城館跡調査の概要は、末森合戦を成政が前田利家の加賀・能登の分断を目的として攻め込んだものとし、町南部の坪山集落背後にある坪井山砦を紹介する。『自養録』紙背文書と『末森記』によれば、ここは末森合戦で成政が「本陣」として使った場所で、測量で堀や土塁と思われる遺構が確認され、佐々方の陣城と推測されている。本陣跡からは北に末森山を望む14。

六、佐々成政:浜松行きと「さらさら越え」

富山市郷土博物館の 2013 年特別展「戦国越中の覇者 佐々成政」は、成政の歩みを次のようにまとめる。天正 8 年(1580)に織田勢の主力部隊として富山へ進軍し、同 11 年に越中統一を完成、その後家康と手を組んで秀吉と対決したが同 13 年に降参した。同 15 年の九州島津攻めの戦功で肥後一国の領主として復権したものの、入国後まもなく一揆を引き起こした罪で切腹を命じられ、摂津尼崎で自刃した11。同展は、成政には「さらさら越え」や「佐々堤」、鍬崎山の埋蔵金伝説など多くの逸話が残る一方で、歴史的な実像は意外と知られていないとも書く11。

成政が浜松の家康のもとを訪れたことは同時代の日記で確かめられる。『家忠日記』天正十二年十二月二十五日条に「越中之佐々蔵助濱松へこし候」とある12。これは東京大学史料編纂所の岩沢愿彦論文に載る翻刻による。論文は、この件についての良質の史料は『家忠日記』と『当代記』のみで、ほかはすべて江戸時代の編纂書にすぎないとする12。富山市郷土博物館も『家忠日記』を証拠として、成政が厳冬期の十二月に富山を出発し浜松で家康に会ったことを示し、ルートには諸説あると述べる11。

落合芳幾筆 佐々成政 歌川芳形筆 さらさら越え

後世の浮世絵に描かれた佐々成政。左:落合芳幾「太平記英勇伝 佐々陸奥守成政」(慶応 3 年、1867)。右:歌川芳形筆の「さらさら越え」雪中図(Commons は 19 世紀の作品とする)。いずれも幕末の武者絵で、成政の生前の姿や行軍の記録ではない。出典:Wikimedia Commons(左)、Wikimedia Commons(右)

冬の立山連峰を越えたのか、どの峠を通ったのか、何人を連れていたのか、途中で何があったのかは、後世の伝承と諸説に属するため、このノートでは採らない。

越中の成政が残した同時代の文書として、金沢市立玉川図書館近世史料館に「佐々成政知行宛行状」がある。目録では天正 12 年 9 月 3 日、成政から小野宗右衛門宛て、刀利村宇野家文書とされる15。

戦のほかに、国土交通省立山砂防事務所の学習資料は、富山市馬瀬口の常西用水の川底に顔をのぞかせる石積み堤防の頂部を「佐々堤」として紹介し、常願寺川の洪水から富山城下を守るため成政が築かせたものとする。土砂で埋まっていたが、常西用水を掘ったときに見つかった16。築造年や規模はこの資料には書かれていない。

七、1585 年:秀吉の越中攻めと白鳥城・安田城

天正 13 年(1585)、秀吉がみずから越中に出兵した。富山市埋蔵文化財センターの資料によれば、秀吉は前田利家らを率いて呉羽丘陵頂上の白鳥城に布陣し、神通川左岸にも安田城と大峪城を築き、利家を白鳥城北側の御服山砦に置いて、右岸の富山城を取り囲んだ。成政は戦わずに降り、富山城を開城した。秀吉は利長に命じて富山城を破却させた。成政は赦されて新川郡一郡のみを支配し、他郡は利家に与えられ、実質的な前田支配がここに始まった17。開城と破却は室町篇でも書いたので、ここでは包囲側の城を補う。

羽咋市が 2025 年に指定した文化財「前田利家黒印状」は、佐々成政討伐のため越中へ出陣する秀吉を接遇するため、邑知潟の鯉を捕って金沢へ運ぶよう、羽咋の吉崎村・深江村・尾長村・千田村の 4 か村に命じたものである18。

白鳥城は呉羽山丘陵の最高峰・城山山頂(標高 145.3m)にある。山頂の主郭を中心に 18 か所の郭と 14 の虎口を設けており、富山市の説明は、このような土造りの城郭は在地の武将の城にはなく、織豊政権の武将が築いたと考えられるとする19。1980〜83 年の試掘調査では主郭から礎石建物跡 2 棟と鍛冶遺構が見つかり、礎石には 15 世紀中頃の宝篋印塔や 14 世紀後半の五輪塔の部材が転用されていた19。白鳥城の年表には、秀吉方の前田氏武将岡嶋一吉と片山伊賀がはじめ白鳥城に拠り、のち岡嶋は安田城へ、片山は大峪城へ移ったとある19。

秀吉自身の行程については、富山市「佐々攻めの拠点 3 城の意味」が古川知明(2007)と萩原大輔(2010)の研究を引いて、成政が戦わずに降伏したため、秀吉は芹谷野からそのまま富山城へ入り、数日後に城の破却を命じてフサク山(白鳥城)へ行き、数日逗留して帰ったとする20。先の「白鳥城に布陣」という概説とは順序が異なる。

安田城跡(富山市婦中町)

安田城跡の水堀と土塁。いまの景観は史跡整備後のもの。撮影:Jinzuu、ライセンス:CC BY-SA 3.0、WebP に変換。出典:Wikimedia Commons

安田城から白鳥城までは 2km、大峪城まで 2.8km、富山城まで 4.7km20。城は本丸・二の丸・右郭の三つの曲輪からなり、本丸が整然とした方形なのに対し二の丸と右郭は不整形で、両者の主軸には約 30 度のずれがある21。曲輪の成立順には二説ある。1978 年の試掘調査時の説は、鎌倉時代にすでに本丸があり、戦国時代に二の丸と右郭が追加されたとする。最近の説は、在地武将の城として二の丸と右郭が先に築かれ、天正 13 年に前田利家が本丸を加えて改修したとする21。富山市の資料は、安田城本丸と大峪城の方形曲輪を京都・聚楽第と同じ型の城郭に分類し、富山県で最も早く採用された例だったようだと述べる20。

八、小松:村上頼勝、丹羽長重と 1600 年の浅井畷の戦い

天正 11 年(1583)に柴田勝家を破った秀吉は、丹羽長秀を越前・若狭と南加賀二郡の大大名とした。長秀の家臣村上頼勝は大名に取り立てられて能美郡小松で 6 万 6 千石を領し、慶長 3 年(1598)に越後へ移封されるまで 15 年余りにわたって支配した13。小松市史は頼勝が動員された軍事行動や普請を表にしており、天正 12 年の対佐々成政の金沢守備、天正 13 年の越中富山から、朝鮮出兵や伏見城普請まで並ぶ。こうした動員による財政負担は大きく、小松での在城期間は実際には短かったという13。市史はまた、「村上義明」の名は後世の系図に見えるもので、現存の書状・領地目録・検地帳ではすべて「頼勝」と署名されていると記す13。

慶長 3 年(1598)、丹羽長秀の嫡男長重が能美郡を与えられ、松任と合わせて 12 万 5000 石の大名となり、小松宰相と呼ばれた22。秀吉の死後、慶長 5 年(1600)の会津征伐で、北国の総大将となった前田利長が長重に出陣を求めたが、長重は拒否した。石田三成の挙兵後、長重は三成陣営の一翼に組み込まれた22。上方へ出陣した利長は、湿地帯に囲まれた小松城の攻城は手間がかかると判断して迂回し、八月三日に大聖寺城を攻略して越前に進んだ。急ぎ引き返した利長軍が金沢へ帰る途上、八月八日夜に浅井村で長重が攻撃を仕掛けた。これが浅井畷の戦いである22。家老江口三郎右衛門の部隊の側面攻撃で、利長方の長連龍勢は苦戦し、多くの死傷者を出した22。石川県立歴史博物館の解説もこの戦いを八月八日としている23。

浅井畷古戦場(小松市大領町)

古戦場の松林に並ぶ九士の石塔。後から建てられた供養塔で、埋葬はない。出典:Wikimedia Commons

その後長重は家康に利長との和議を申請し、九月十八日に相互に人質を入れて和議が成立したが、このときすでに関ヶ原の戦いは終わっていた。戦後、長重は利長の出陣命令に背いた廉で領知を没収され、能美郡は利長に与えられた22。

浅井畷古戦場は石川県指定史跡で、小松市はこの戦いを北陸における「関ヶ原の戦い」と呼ぶ24。古戦場の九士の石塔は、長連龍配下で戦死した 9 人の武士の供養塔で、墓のような形だが埋葬はない。石塔の向きや配置が不規則なのは、九士が倒れた方向に向けて建てたためともいわれる24。最も早いのは堀内一秀軒の塔の万治 3 年(1660)で、安永 9 年(1780)には 6 塔と「六嶋少三郎」の石塔が確認され、その後さらに 3 塔が建てられた24。

牧忠輔「浅井畷合戦図屏風」第一・二扇(1803 年、石川県立歴史博物館蔵)

加賀藩士牧忠輔が戦いから約 200 年後に描いたもので、浅井畷付近の地形に合戦の考証を加えている。出典:Wikimedia Commons

石川県立歴史博物館所蔵の「浅井畷合戦図屏風」は享和 3 年(1803)の作で、6 曲 1 隻、紙本淡彩。作者の牧忠輔は 200 石の加賀藩士で、館の解説によれば浅井畷付近の地形を描き、合戦の考証を加えたものである23。

浅井畷の戦いののち能美郡も前田利長のものとなり、ここから江戸時代の加賀藩の時期に入る。

九、後世の作品に描かれた北陸の戦国

以下は出版社・放送局・館の公式紹介で確認できる内容に限る。作品の筋書きは史実としては扱わない。

  • NHK 大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』(2002)第 35 回「末森城の決戦」の公式あらすじでは、石田三成が秀吉の使者として「金沢城を一歩も出てはならぬ」という命令を伝え、利家はまつに諭されて出陣する25。第 36 回「さらさら越え」は、成政と妻はるが 100 人あまりの兵とともに真冬の立山連峰を越えようとし、途中ではるが雪崩に巻き込まれる筋である25。三成の伝令、妻の同行、雪崩といった場面は、ここまでに引いた史料には出てこない。
  • 漫画『花の慶次―雲のかなたに―』(原哲夫作画、隆慶一郎原作)は 1990 年から『週刊少年ジャンプ』で連載された26。集英社文庫版第 1 巻の紹介文は、大軍に急襲された末森城を救うため慶次が単身出陣する場面を挙げる26。公式サイト自身が、今日の前田慶次像は隆慶一郎『一夢庵風流記』やこの漫画など後世の創作によるところが多く、流布する諸説の真偽をすべて判断することはできないと書いている26。
  • 風野真知雄『沙羅沙羅越え』は、秀吉への徹底抗戦を家康に懇願するため厳冬期の飛騨山脈を越える成政を描く。第 21 回中山義秀文学賞受賞作で、角川文庫版は 2016 年 4 月発売27。
  • 新田次郎の短編集『きびだんご侍』には「佐々成政の北アルプス越え」と「豪雪に敗けた柴田勝家」が収められ、新潮社の紹介は後者を「歴史の背後に隠された気象情報戦略」に迫る作品とする28。新田次郎は中央気象台に勤めた経歴をもつ28。
  • 泉鏡花『黒百合』は、成政の愛妾早百合姫の伝説を背景にした物語で、黒部市立図書館の地方文学紹介によれば、黒百合の伝説は江戸時代に広まり、作品の前半は富山市内が舞台で総曲輪・四十物町・旅籠町などが登場する29。全文は青空文庫で読める29。
  • 高岡市立博物館の 2023 年特別展「浮世絵に描かれた加越能」の出品目録には、落合芳幾「太平記英勇伝 佐々陸奥守成政」(慶応 3 年正月)、歌川国芳「太平記英勇伝 佐田陸奥守有正」(1847〜52 年)、揚州周延「佐々成政出陣 さらさら越え雪中の景」(明治期、3 枚組)が並ぶ30。本文で使った芳形の「さらさら越え」図はこの目録にはなく、別の作品である。

十、いま訪ねられる場所

本文に関連する見学可能な施設と地点。マーカーをクリックすると Google Maps で開く。地図の表記は中国語(繁体字)。地図:© OpenStreetMap contributors © CARTO。⚠ お出かけ前に公式情報でご確認ください。
地域場所種類説明
金沢金沢城公園公園・史跡1583 年前田利家入城。1592 年から戸室石で石垣を構築7
小松浅井畷古戦場県指定史跡1600 年浅井畷の戦い。九士の供養塔2431
小松小松城跡(天守台)城跡丹羽長重が拠った、湿地帯に囲まれた城。見学方法は要確認22
七尾七尾城跡・七尾城史資料館国史跡1577 年上杉謙信により落城。旧大手道(袴腰〜調度丸)は 2026 年 8 月 8 日から開放3
宝達志水末森城跡県指定史跡1584 年末森合戦。標高 138.8m の山城10
羽咋邑知潟潟湖秀吉接遇のための鯉を捕るよう利家黒印状が命じた潟18
富山富山城址公園公園・史跡成政の居城。1585 年に開城ののち破却17
富山白鳥城跡城跡呉羽丘陵頂上の秀吉方の陣城。空堀や土塁が良好に残る19
富山安田城跡・資料館国史跡秀吉方の支城。再整備工事は 2027 年 3 月中旬まで(予定)、工事中も本丸と資料館は見学可32
魚津魚津城跡城跡天正 10 年 6 月 3 日落城。旧魚津市街地の中心部6

参考資料

Footnotes

  1. 戦国時代(日本)(応仁の乱から 1568 年の信長上洛までという一般的な定義と諸説):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) ;安土桃山時代(1573–1603 年、織豊時代):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E6%A1%83%E5%B1%B1%E6%99%82%E4%BB%A3 ↩ ↩2

  2. 小松市『図説こまつの歴史』近世 1「織田信長の南加賀進攻」pp.62–63(天正 3 年の越前進攻と府中の三人、天正 5 年八月の小松・本折・安宅攻略、九月十五日の七尾落城、二十三日の撤退と手取川、『信長公記』巻十天正五年八月八日条の図版・陽明文庫所蔵):https://www.city.komatsu.lg.jp/material/files/group/39/301nobunaga.pdf ↩ ↩2 ↩3

  3. 七尾市「史跡七尾城跡」(畠山氏の 16 世紀前半の築城、城域と面積、天正 5 年落城、169 年の支配、天正 9 年利家入城、天正 10〜17 年小丸山築城、本丸標高 305m、旧大手道の令和 8 年 8 月 8 日開放):https://www.city.nanao.lg.jp/syougai/nanaojoushi.html ↩ ↩2 ↩3 ↩4

  4. 七尾市「Welcome to Nanao Castle」(1576・1577 年の包囲、疫病、遊佐続光と長続連、謙信の翌春の死去、利家の港近くへの移転):https://www.city.nanao.lg.jp/syougai/nanaojoushi/english/index.html ↩ ↩2 ↩3 ↩4

  5. 乃至政彦「謙信最後の合戦「手取川合戦」の実像を13の軍記資料から紐解く」SYNCHRONOUS、2023 年 2 月 21 日(『信長公記』巻十の引用、『歴代古案』の書状写し、合戦の規模と実在への疑問):https://www.synchronous.jp/articles/-/844 ↩ ↩2

  6. 魚津市「魚津城と松倉城」(椎名氏築城の伝え、1569 年上杉支配、天正 10 年三月の包囲から六月三日の落城と四日以降の撤退、1583 年成政の攻略):https://www.city.uozu.toyama.jp/guide/svGuideDtl.aspx?cd=0101&servno=25191 ↩ ↩2 ↩3 ↩4

  7. 石川県金沢城調査研究所「金沢城の年表」(1580 年佐久間盛政、1583 年利家入城、1586 年天守、1587 年穴太源介、1592 年戸室石の石垣、1602 年落雷):https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kanazawazyo/history2.html ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5

  8. 石川県金沢城公園「天守、三階櫓の史料」(天正 14〜15 年の天守造営、天正 14 年六月利家朱印状の鉄輸送、位置不明、慶長 7 年十月三十日焼失、三階櫓):https://shiro-niwa.pref.ishikawa.lg.jp/kanazawa-castle/explore/document.php ↩ ↩2

  9. 石川県「金沢城の石垣について教えてください」(初期の河原石、文禄元年以降の戸室石、城の東 8km の戸室山、天正 15 年の穴生源助):https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kanazawazyo/qa-is1.html ↩ ↩2

  10. 宝達志水町「末森城跡」(末森山標高 138.8m、天正 12 年の成政の攻撃、奥村永福の死守、利家の来援、加賀百万石の基礎という伝え、本丸〜若宮丸の県史跡指定):https://www.hodatsushimizu.jp/kanko/kanko/3/4/historic_site/1522.html ↩ ↩2 ↩3 ↩4

  11. 富山市郷土博物館 2013 年特別展「戦国越中の覇者 佐々成政」(1580 年の富山進軍から肥後での切腹までの経歴、逸話、『家忠日記』とルートの諸説):https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/kikakuhaku/list/h25/2503/2503.html ↩ ↩2 ↩3 ↩4

  12. 岩沢愿彦「家忠日記の原本について」『東京大学史料編纂所報』第 2 号、1968 年、印刷頁 20(「佐々成政の浜松訪問について」、天正十二年十二月廿五日条「越中之佐々蔵助濱松へこし候」、良質の史料は『家忠日記』と『当代記』のみ):https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/02/syoho0002-iwazawa.pdf ↩ ↩2 ↩3

  13. 小松市『図説こまつの歴史』近世 2「村上頼勝の時代」pp.64–65(能美郡小松 6 万 6 千石、慶長 3 年越後移封、動員表、「義明」と「頼勝」):https://www.city.komatsu.lg.jp/material/files/group/39/302yorikatsu.pdf ↩ ↩2 ↩3 ↩4

  14. 宝達志水町「宝達志水町末森城等城館跡群調査の概要(平成 17 年-18 年)」(坪井山砦、加賀・能登分断の目的、『自養録』紙背文書・『末森記』、佐々方の本陣、標高約 54m の堀と土塁):https://www.hodatsushimizu.jp/soshiki/bunkazaishitsu/2/1/1222.html ↩

  15. 金沢市立玉川図書館近世史料館「佐々成政知行宛行状」(刀利村宇野家文書、成政→小野宗右衛門、天正 12 年 9 月 3 日、目録欄):https://jmapps.ne.jp/amhr/det.html?data_id=44097 ↩

  16. 国土交通省立山砂防事務所「佐々堤」(馬瀬口の常西用水の川底の石積み堤防、成政築造の説明、用水掘削時の発見):https://www.hrr.mlit.go.jp/tateyama/gakusyuu/tanken/sassa.html ↩

  17. 富山市埋蔵文化財センター「富山城 戦国時代編2」(1585 年の白鳥城布陣、安田城・大峪城・御服山砦、成政の開城、利長による破却、新川郡一郡):https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/history/sengoku2.htm ↩ ↩2

  18. 羽咋市「前田利家黒印状『秀吉接遇のため邑知潟の鯉の献上を命ず』」(越中出陣の秀吉の接遇、吉崎・深江・尾長・千田の 4 か村、令和 7 年 3 月 24 日指定):https://www.city.hakui.lg.jp/rekimin/history/culturalproperties/maedatoshiiekokuinjo.html ↩ ↩2

  19. 富山市「白鳥城跡」(標高 145.3m、18 郭 14 虎口、織豊武将の築城とする見解、1980〜83 年の試掘、礎石への石塔転用、岡嶋一吉・片山伊賀):https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/center/topics/siratori/siratori.htm ↩ ↩2 ↩3 ↩4

  20. 富山市「安田城を考える2 佐々攻めの拠点3城の意味」(3 城の距離、秀吉が芹谷野から富山城へ入り白鳥城に逗留したとする修正、聚楽第型城郭。古川知明 2007、萩原大輔 2010 を引用):https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/yasuda/y-kouza/y-kouza2.htm ↩ ↩2 ↩3

  21. 富山市「安田城を考える」(本丸・二の丸・右郭、主軸の約 30 度のずれ、曲輪成立順の二説):https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/yasuda/y-kouza/y-kouza1.htm ↩ ↩2

  22. 小松市『図説こまつの歴史』近世 3「丹羽長重と浅井畷の戦い」pp.66–67(長重の能美郡拝領、出陣拒否、湿地帯の小松城を迂回、八月三日大聖寺城、八月八日夜浅井村、江口三郎右衛門、九月十八日和議、戦後の領知没収):https://www.city.komatsu.lg.jp/material/files/group/39/303asainawate.pdf ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6

  23. 石川県立歴史博物館「浅井畷合戦図屏風」(1803 年、6 曲 1 隻紙本淡彩、牧忠輔、八月八日の浅井畷):https://www.ishikawa-rekihaku.jp/collection/detail.php?cd=GI00220 ↩ ↩2

  24. 小松市「小松市の文化財 浅井畷古戦場」(県指定史跡、北陸の「関ヶ原の戦い」、九士の供養塔と埋葬なし、万治 3 年が最古、安永 9 年の石塔):https://www.city.komatsu.lg.jp/material/files/group/13/pref006asainawatekosennj.pdf ↩ ↩2 ↩3 ↩4

  25. NHKオンデマンド『利家とまつ』第 35 回「末森城の決戦」:https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2009007330SA000/ ;第 36 回「さらさら越え」:https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2009007331SA000/ ↩ ↩2

  26. 集英社『花の慶次―雲のかなたに―』文庫版第 1 巻(1999 年 3 月 18 日発売、末森城):https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=4-08-617471-5 ;『花の慶次』公式サイト ABOUT(1990 年連載開始、後世の創作による慶次像):https://hananokeiji.jp/about/ ↩ ↩2 ↩3

  27. KADOKAWA『沙羅沙羅越え』角川文庫(2016 年 4 月 23 日発売、第 21 回中山義秀文学賞):https://www.kadokawa.co.jp/product/321602000662/ ↩

  28. 新田次郎文学賞「新田次郎著作一覧」(『きびだんご侍』収録作):https://nittajiro.com/works/ ;新潮社『きびだんご侍』(作品紹介、著者略歴):https://www.shinchosha.co.jp/book/865385/ ↩ ↩2

  29. 黒部市立図書館 地方文学紹介(泉鏡花『黒百合』、早百合姫の伝説、総曲輪・四十物町・旅籠町):https://www.city.kurobe.toyama.jp/attach/EDIT/006/006398.pdf ;青空文庫『黒百合』:https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4635.html ↩ ↩2

  30. 高岡市立博物館 2023 年特別展「浮世絵に描かれた加越能 ~佐伯コレクションの世界~」出品目録 No.12–14:https://www.e-tmm.info/list_2023_ukiyoe.pdf ↩

  31. こまつ観光ナビ「浅井畷古戦場」:https://www.komatsuguide.jp/spot/detail_23.html ↩

  32. 富山市「安田城跡再整備工事のお知らせ」(令和 8 年 8 月初旬〜令和 9 年 3 月中旬、工事中も本丸と資料館は見学可):https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/yasuda/kouji202607.html ↩