北陸歴史ノートは先史から令和まで、時代ごとに十五篇に分けて書いた。この篇はその総覧で、まず時代順に各篇を並べ、次に時代をまたいで繰り返し現れるテーマをまとめ、各篇で書かなかった工芸と町並みを補う。範囲は金沢・富山・小松が中心。各篇で書いた事実の出典はその篇の脚注を参照。この篇で新しく加えた内容には脚注を付けた。

金沢・富山・小松には先史時代から人が住んでいたが、文字記録が残り始めた時期と、地域の中心になった時代はそれぞれ違う。奈良時代に資料が最も多いのは越中国府があった高岡伏木で、平安時代に加賀国が立てられると国府の候補地は小松にあった。金沢が「金沢坊舎」の名で文献に現れるのは 1546 年で、加賀の中心になるのは 1583 年に前田利家が入城してからである。富山は戦国時代に築城され、江戸時代は分家富山藩の城下町、明治時代に石川県から分かれて富山県となった。下の地図には各篇の代表的な地点を時代別に色分けして載せた。

各篇の代表的な地点を時代別に色分けした。マーカーをクリックすると Google Maps と該当篇を開ける。地図の表記は中国語(繁体字)。地図 © OpenStreetMap contributors © CARTO。⚠ 点線枠のマーカーはおおよその座標。訪問前に公式情報で確認を。

一、十五篇のノート

時代年代三地域の主な変化ノート
先史約 3 万年前〜7 世紀旧石器の石器散布地、金沢の環状木柱列、小松八日市地方の環濠集落、富山の前方後方墳先史篇
飛鳥6 世紀後半〜710小松の須恵器窯と製炭窯、富山の墨書土器と官衙関連遺跡。「越」が令制国に組み込まれていく飛鳥篇
奈良710〜794越中国府と大伴家持、東大寺開田図。金沢と小松はまだ越前国奈良篇
平安794〜1185823 年の加賀立国、白山と立山の信仰、1183 年の倶利伽羅峠平安篇
鎌倉1185〜1333承久の乱の北陸道軍、安宅と『勧進帳』の伝承、富樫氏の成長鎌倉篇
室町1336〜1573加賀守護富樫氏、本願寺門徒と一向一揆、1546 年の金沢御堂、神保氏の富山城室町篇
戦国後期1570 年代〜1600七尾城、末森合戦、佐々成政、1600 年の浅井畷の戦い戦国後期篇
江戸前中期1600〜1780 年ごろ前田利常の分藩と小松隠居、金沢城下、富山藩と売薬、芭蕉の北陸路江戸前中期篇
江戸後期・幕末1780 年ごろ〜1868兼六園、銭屋五兵衛、再興九谷、飛越地震、北越出兵江戸後期篇
明治1868〜19121883 年の富山分県、第四高等学校、第九師団、富山と高岡の大火明治篇
大正1912〜1926米騒動、前田侯爵家、小松製作所、犀川大橋と旧県庁舎大正篇
昭和前期1926〜1945モダン金沢、第九師団の台湾転進、小松の海軍飛行場、富山大空襲昭和前期篇
昭和後期1945〜1989占領、城内の金沢大学、内灘闘争、黒部ダム、イタイイタイ病訴訟昭和後期篇
平成1989〜201921 世紀美術館、五箇山の世界遺産、北陸新幹線金沢開業、台北便平成篇
令和2019〜富山駅の路面電車南北直通、新幹線の敦賀延伸、能登半島地震令和篇

旅の実務(11 月の営業条件、立山黒部と黒部峡谷鉄道の切符、子ども連れの見どころと飲食店)は北陸旅行ガイドに書いた。

二、地名と行政

古代の北陸は「越」と総称された。7 世紀後半から越前・越中・越後などの令制国に分けられ、能登は 718 年に越前から分かれた。奈良時代の富山は越中国に属し、国府は今の高岡市伏木のあたりにあった。金沢と小松は越前国に属していた(飛鳥篇、奈良篇)。823 年に加賀国が越前から分立し、国府の有力候補地は小松市古府台地の石部神社周辺である(平安篇)。

三つの地名が文献に現れるのは、富山が 1398 年の「外山郷」、金沢が 1546 年の「金沢坊舎」、小松が 1564 年ごろと推定される「小松口合戦」である(先史篇)。金沢坊舎は本願寺の金沢御堂のことで、今の金沢城公園の場所にあった(室町篇)。

金沢城石川門

金沢城の場所は、1546 年には金沢御堂と寺内町、1583 年からは前田家の居城、明治以降は第九師団、戦後は金沢大学のキャンパスだった(室町篇、戦国後期篇、明治篇、昭和後期篇を参照)。撮影:Yusuke.ogawa、Public domain。出典:Wikimedia Commons

中世加賀の政治の中心は野々市の守護所・富樫館で、金沢ではなかった(鎌倉篇、室町篇)。1488 年の長享一揆のあと、加賀は本願寺門徒の自治が続き、1580 年に織田方が金沢御堂を攻め落とす。1583 年に前田利家が金沢城に入り、1600 年の浅井畷の戦いのあと南加賀の能美郡も前田家の領地となった(戦国後期篇)。1639 年、前田利常は富山十万石を次男利次に、大聖寺七万石を三男利治に分け、自らは小松に隠居した(江戸前中期篇)。

明治に入ると、1871 年に廃藩置県があり、越中は 1876 年に石川県へ編入され、1883 年に再び分かれて富山県となった(明治篇)。2004〜2006 年の富山県の市町村合併で、八尾は富山市に、利賀は南砺市に入った(平成篇)。

三、北陸道と日本海

平安時代の加賀国内の北陸道には六つの駅が置かれていた(平安篇)。加賀と越中の国境にある倶利伽羅峠は、1183 年に木曾義仲が平家を夜襲した戦場で、1221 年の承久の乱では幕府の北陸道軍が砺波山で勝ち(鎌倉篇)、1689 年には芭蕉がくりからが谷を越えて金沢に入った(江戸前中期篇)。

勝川春亭『倶利伽羅谷大合戦図』(1810 年ごろ)

江戸時代の浮世絵が描き直した 1183 年の倶利伽羅峠の夜襲。火牛の計は『源平盛衰記』に見え、古態の『平家物語』にはない(平安篇を参照)。勝川春亭作、米国議会図書館蔵、Public domain。出典:Wikimedia Commons

海の道では、570 年に高句麗の使節が「越岸」に漂着し(先史篇)、762 年には渤海使が越前国加賀郡でもてなされた(奈良篇)。中世の安宅湊は南加賀と日本海を結ぶ港で、1491 年には冷泉為広が帰路に安宅で泊まっている(室町篇)。江戸後期の銭屋五兵衛は宮腰(今の金石)を拠点に北前船を営み(江戸後期篇)、明治時代の伏木港は 1899 年に開港場となって、1900 年にはウラジオストクへの定期航路が開かれた(明治篇)。

北陸線は 1898 年に金沢まで通じ、1913 年に米原―直江津間が全通した(明治篇、大正篇)。小松飛行場は 1961 年に自衛隊と民間の共用空港となり、富山空港は 1963 年に開港し、北陸自動車道は 1988 年に全線がつながった(昭和後期篇)。北陸新幹線は 2015 年に金沢まで開業し(平成篇)、2024 年に敦賀まで延びた(令和篇)。

この二つの道を通って来た人々は多くの記録を残した。越中で五年を過ごした大伴家持の歌、1091 年の加賀守藤原為房の出張日記、1689 年の芭蕉の『おくのほそ道』、1867 年に七尾から金沢・小松を経て大坂へ陸路で向かった英国人サトウの記録、1891 年の Percival Lowell の能登紀行である(奈良篇、平安篇、江戸前中期篇、江戸後期篇、明治篇)。

四、白山・立山と真宗

白山信仰の出発点は、717 年の泰澄による開山の伝承である。832 年に加賀・越前・美濃の三方に登拝拠点「三馬場」が開かれ、加賀馬場の中心は白山比咩神社だった。1147 年には白山本宮が延暦寺の末寺となる(平安篇)。小松の那谷寺も白山信仰の寺で、寺伝では泰澄の開創、花山法皇による改名の伝説は『白山之記』に見える。一向一揆の戦火のあと 1640 年に前田利常が再興し、1689 年には芭蕉が参詣し、1712 年の正徳一揆では寺内の不動院が打ち壊された(奈良篇、平安篇、室町篇、江戸前中期篇)。

雨晴海岸と立山連峰

高岡の雨晴海岸から富山湾越しに見る立山連峰。奈良時代には大伴家持の歌の風景だった(奈良篇を参照)。撮影:Smiley.toerist、ライセンス:CC BY-SA 4.0、縮小して WebP に変換。出典:Wikimedia Commons

立山では、平安時代の『今昔物語集』が「日本国の罪を造る人は、多くこの立山の地獄に堕ちる」と記し(平安篇)、芦峅寺の雄山神社中宮祈願殿には鎌倉初期と推定される慈興上人坐像が伝わる(鎌倉篇)。江戸時代には加賀藩の奥山廻役が立山と黒部を見回り、1858 年の飛越地震では立山カルデラが崩れ、その後二度の大きな土石流が起きて、二度目は堤防を破って富山平野に流れ込んだ(江戸後期篇)。1907 年には陸地測量部の柴崎芳太郎が剱岳に挑み(明治篇)、1971 年に立山黒部アルペンルートが全線開通した(昭和後期篇)。

北陸の真宗の歩みは、1207 年の親鸞の越後配流に始まる(鎌倉篇)。1390 年に綽如が越中井波に瑞泉寺を開き、1471 年に蓮如が越前吉崎で布教を始め、1488 年には加賀の門徒が守護富樫政親を倒し、1546 年に金沢御堂が創建された。1580 年に金沢御堂が落ち、1582 年に白山麓の鳥越城に拠った山内衆が鎮圧されて、加賀一向一揆は終わる(室町篇)。

五、前田家

前田利家は 1581 年に能登一国を得て、1583 年に金沢城に入り、1584 年の末森合戦で佐々成政を退け、1585 年には秀吉の越中攻めに従った(戦国後期篇)。江戸時代の加賀藩は百万石を超え、前田家は幕府から御三家に準じる待遇を受けた(江戸前中期篇)。

歴代藩主の残したものは、今も金沢城の周辺でほとんど見ることができる。3 代利常の玉泉院丸庭園と辰巳用水、4 代光高の東照宮(今の尾崎神社)、5 代綱紀がまとめた工芸標本「百工比照」(江戸前中期篇)。12 代斉広は兼六園と名付け、13 代斉泰は霞ヶ池を広げて母のために成巽閣を建て、14 代慶寧は卯辰山に養生所と撫育所を設けた(江戸後期篇)。

兼六園霞ヶ池

13 代藩主斉泰が広げた霞ヶ池。兼六園の名は 1822 年に付けられ、1860 年に蓮池庭と一つになって今の形になった(江戸後期篇を参照)。撮影:Tbatb、ライセンス:CC BY-SA 4.0、縮小して WebP に変換。出典:Wikimedia Commons

廃藩後、前田家は侯爵家となり、東京の本郷に住んだ。15 代利嗣は 1883 年に編輯方を置いて旧藩の史料を集め、16 代利為は 1926 年に育徳財団(今の前田育徳会)を設立した。同じ年に本郷邸は東京帝国大学に譲られ、駒場の新しい本邸は 1929〜1930 年に完成した。編輯方が集めた史料は 1948 年に金沢市に寄贈され、加越能文庫となった(大正篇)。1930 年に兼六園に建てられた慶寧の銅像は、1944 年の金属回収で献納された(昭和前期篇)。1947 年の昭和天皇の北陸巡幸では、天皇は成巽閣に泊まっている(昭和後期篇)。

六、富山:城・薬・水

富山城は越中守護代の神保氏が築いた。築城年には諸説あり、1543 年説が最も有力である(室町篇)。1581 年に佐々成政が入城し、1585 年に秀吉が包囲すると成政は戦わずに降り、城は破却された(戦国後期篇)。1639 年に富山藩が成立すると、藩主利次ははじめ百塚に新城を築こうとしたが取りやめ、富山城を居城として幕末に至った(江戸前中期篇)。今の天守は 1954 年に戦災復興の記念として建てられたもので、内部は富山市郷土博物館である(昭和前期篇)。

売薬は富山藩 2 代藩主前田正甫の時代から藩の統制を受けるようになり、1816 年に反魂丹役所が置かれた(江戸前中期篇)。売薬人は「懸場帳」に沿って決まった得意先を回り、文政年間には北海道の松前藩まで行っていた(江戸後期篇)。1891 年、Lowell は富山の薬が日本中で売られていると聞き(明治篇)、1918 年の新聞は朝鮮や台湾へ薬を移出する業者が少なくないと書いた(大正篇)。

常願寺川の治水はいくつもの時代にまたがる。佐々成政が築いたと伝わる「佐々堤」(戦国後期篇)、1858 年の飛越地震後の土石流(江戸後期篇)、1891 年にオランダ人技師デ・レーケが提案した取水口の合口化(明治篇)、1920 年からの県営電気事業と上滝発電所(大正篇)。黒部川の黒部ダムは 1963 年に完成した(昭和後期篇)。神通川流域のイタイイタイ病は、1971 年に日本の公害訴訟で初めての勝訴判決を得た(昭和後期篇)。

黒部ダム

関西電力の黒部ダム。1963 年竣工、堤高 186 m(昭和後期篇を参照)。撮影:elminium、ライセンス:CC BY 2.0、縮小して WebP に変換。出典:Wikimedia Commons

1899 年の大火のあと、大手門のあたりの道は広げられ、まっすぐに直された(明治篇)。1945 年 8 月 2 日の空襲では市街地の 99.5% が焼失した(昭和前期篇)。復興した中心部には 2006 年に富山ライトレールが開業し、2020 年には路面電車が富山駅で南北直通した(平成篇、令和篇)。

七、小松:窯・港・空港

小松東部の丘陵では、古墳時代中期から平安時代後期まで 500 年近く須恵器が焼かれ、確認された窯跡は 270 基を超える(飛鳥篇、奈良篇)。平安末期からは同じ一帯で中世陶器「加賀焼」が作られた(室町篇)。梯川河口の安宅は中世の港で、『勧進帳』の舞台でもある(鎌倉篇、室町篇)。

近世の小松は、まず 1600 年の浅井畷の戦いの戦場となり(戦国後期篇)、その後は前田利常の隠居地だった。利常は 1640 年に小松城に入り、1657 年に小松天満宮を建てた。1766 年からは曳山子供歌舞伎が伝わる(江戸前中期篇)。1811 年に花坂陶石で磁器を焼いた若杉窯は、再興九谷の窯の一つである(江戸後期篇)。

近代に入ると、尾小屋鉱山が 1880 年に採掘を始め(明治篇)、竹内明太郎が遊泉寺銅山のために設けた鉄工所が 1921 年に小松製作所となった(大正篇)。1940 年に小松は市となり、太平洋戦争中には郊外に海軍飛行場が造られた(昭和前期篇)。戦後は自衛隊と民間の共用の小松空港となり(昭和後期篇)、2008 年に台北への定期便が就航した(平成篇)。

八、工芸

各篇で書いた工芸には、小松の須恵器と加賀焼、前田綱紀の百工比照、再興九谷の若杉窯、明治時代に欧米へ輸出された「ジャパンクタニ」、1946 年に旧陸軍兵器庫で開校した金沢美術工芸専門学校がある(江戸前中期篇、江戸後期篇、明治篇、昭和後期篇)。2009 年、金沢はユネスコのクラフト創造都市に認定された(平成篇)。

古九谷は各篇で書かなかった。石川県立美術館の解説によれば、古九谷は九谷焼のなかで最も早く江戸時代前期に焼かれた色絵磁器で、加賀藩の支藩である大聖寺藩の命を受けた後藤才次郎によって明暦元年(1655)ごろに開窯され、生産活動はその後約五十年間程度と考えられている1。大聖寺藩は、1639 年に利常が三男利治に分けたあの藩である。江戸後期篇の若杉窯などの再興九谷は、古九谷のあとに改めて始まった窯である。

金沢箔も各篇で書かなかった。金沢市の説明では、金沢箔の歴史は安土桃山時代にさかのぼり、明治以降に技術の高さと水質の良さから急速に発展した。現在、全国の生産高のうち金箔は 99% 以上、銀箔と洋箔は 100% が金沢産である2。同じ資料は、金沢の伝統工芸の背景を前田家歴代藩主の工芸振興に求めている2。

九、焼けた町と残った町並み

金沢の城下は江戸時代に 1631 年、1759 年などの大火に見舞われたが(江戸前中期篇)、太平洋戦争では石川県はほとんど空襲を受けなかった(昭和前期篇)。今、金沢市内には国が選定した重要伝統的建造物群保存地区が四つある。茶屋町の東山ひがし(2001 年選定)と主計町(2008 年)、寺町の卯辰山麓(2011 年)と寺町台(2012 年)である3。卯辰山麓地区は卯辰山のふもとで、卯辰山の開拓、句碑、銅像は江戸後期篇と明治篇で書いた。

菅野家住宅(高岡市木舟町)

1900 年の高岡大火のあとに建て直された土蔵造りの町家(明治篇を参照)。山町筋一帯はのちに重要伝統的建造物群保存地区となった。撮影:くろふね、ライセンス:CC BY 3.0、縮小して WebP に変換。出典:Wikimedia Commons

富山県の重要伝統的建造物群保存地区は、五箇山の相倉と菅沼(1994 年)、高岡の山町筋(2000 年)、金屋町(2012 年)、吉久(2020 年)である3。山町筋は 1900 年の高岡大火のあとに建て直された土蔵造りの町家の通り(明治篇)で、相倉と菅沼は 1995 年に世界遺産に登録された(平成篇)。富山市の中心部は 1899 年の大火と 1945 年の空襲を経て、戦前の建物はわずかしか残っていない。1936 年の富山電気ビルは空襲で焼夷弾を受けたが、消し止められて外観を保った(昭和前期篇)。

1945 年 8 月の富山空襲

米軍が撮影した富山空襲。市街地の 99.5% が焼失した(昭和前期篇を参照)。撮影:USAAF、Public domain、縮小して WebP に変換。出典:Wikimedia Commons

十、災害

各篇で書いた主な災害を年代順に並べる。1858 年の飛越地震と常願寺川の土石流(江戸後期篇)。1899 年の富山大火と 1900 年の高岡大火(明治篇)。1922 年の豪雨による犀川大橋の流失(大正篇)。1945 年の富山空襲(昭和前期篇)。1963 年の三八豪雪と、1968 年に公害病と認定されたイタイイタイ病(昭和後期篇)。2004 年の福井豪雨と 2007 年の能登半島地震(平成篇)。2024 年の能登半島地震と奥能登豪雨(令和篇)。

十一、台湾との往来

各篇で書いた台湾関係の事柄を年代順に並べる。

  • 明治:金沢出身の八田與一が 1910 年に台湾総督府に勤め、鶴来出身の建築家梅澤捨次郎が 1911 年に台湾へ渡った(明治篇)。
  • 大正:八田與一が嘉南大圳と烏山頭ダムの工事を率いた。丘念台が金沢の第四高等学校に学んだ。1924 年、金沢一中が全国中等学校野球大会で台北商業に敗れた。富山の売薬が台湾へ移出された(大正篇)。
  • 昭和前期:1932 年に落成した金沢能楽堂の舞台に阿里山の檜が使われた。1934 年に金沢と台湾の間の無線電話が開通した。第九師団は 1944 年末に台湾へ移り、新竹で終戦を迎えた(昭和前期篇)。
  • 昭和後期:台湾生まれの林虎彦が 1950 年に金沢で創業した。1966 年に YKK が台湾に子会社を設けた。1985 年に八田與一の追悼式があった(昭和後期篇)。
  • 平成:2008 年に小松、2012 年に富山から台北への定期便が就航した(平成篇)。
  • 令和:2024 年の能登半島地震のあと台湾から見舞いと寄付が届き、同年 4 月の台湾東部地震では石川・富山両県が台湾に見舞いを送った。2026 年に富山―台北の定期便が再開した(令和篇)。

十二、旅行中の地点対照

同じ場所がいくつもの篇に出てくることが多い。この旅で通りそうな地点と、関係する篇を表にまとめた。

地域地点関係する時代ノート
金沢金沢城公園室町、戦国後期、江戸、明治、昭和室町、戦国後期、江戸前中期、明治、昭和前期、昭和後期
金沢兼六園・成巽閣江戸後期、昭和江戸後期、昭和後期
金沢石川県立歴史博物館・国立工芸館明治、大正、昭和明治、大正、昭和後期
金沢卯辰山・東山ひがし・主計町江戸後期、明治、大正、昭和江戸後期、明治、大正、昭和前期
金沢犀川大橋・浅野川大橋・しいのき迎賓館大正大正
金沢金石(銭五の館・銭五公園)江戸後期、大正江戸後期、大正
金沢21 世紀美術館・鈴木大拙館明治、平成明治、平成
富山富山城址公園室町、戦国後期、江戸、昭和室町、戦国後期、江戸前中期、昭和前期
富山富山電気ビル昭和昭和前期、昭和後期
富山富山駅・路面電車明治、平成、令和明治、平成、令和
富山富山市民俗民芸村 売薬資料館江戸江戸前中期、江戸後期
立山岩峅寺・芦峅寺・立山博物館平安、鎌倉平安、鎌倉
立山立山黒部アルペンルート・黒部ダム昭和昭和後期
高岡伏木(勝興寺・万葉歴史館)奈良、明治奈良、明治
高岡瑞龍寺・山町筋江戸、明治、大正、平成江戸前中期、明治、大正、平成
小松加賀国府ものがたり館古墳、奈良、平安先史、奈良、平安
小松安宅住吉神社・安宅の関鎌倉、室町、江戸後期鎌倉、室町、江戸後期
小松那谷寺奈良、平安、室町、江戸奈良、平安、室町、江戸前中期
小松多太神社平安、江戸平安、江戸前中期
小松八日市地方遺跡・小松空港弥生、昭和、平成先史、昭和後期、平成

参考資料

Footnotes

  1. 石川県立美術館「特集 古九谷・再興九谷」(2002 年の展覧会。国立新美術館アートコモンズ収録:「その九谷焼のなかで最も早く江戸時代前期に焼かれた色絵磁器が古九谷です」「加賀藩の支藩である大聖寺藩の命を受けた後藤才次郎によって明暦元年(1655)頃に開窯され、生産活動はその後約五十年間程度と考えられています」):https://www.nact.jp/artcommons/user/detail/4491 ↩

  2. 金沢市「ユネスコ・クラフト創造都市―手仕事のまち・金沢 金沢の伝統工芸」(金沢箔:安土桃山時代に遡る、明治以降に発展、金箔 99% 以上・銀箔と洋箔 100% が金沢産。前田家の工芸振興):https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/30/100324dentou-jpn.pdf ↩ ↩2

  3. 文化庁「重要伝統的建造物群保存地区一覧」(金沢市東山ひがし 平 13.11.14、主計町 平 20.6.9、卯辰山麓 平 23.11.29、寺町台 平 24.12.28。南砺市相倉・菅沼 平 6.12.21、高岡市山町筋 平 12.12.4、金屋町 平 24.12.28、吉久 令 2.12.23):https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/judenken_ichiran.html ↩ ↩2